3月24日 満開の桜

今日は偶々です(?)が営業で桜が咲き誇る場所を通りました。新京成常盤平駅前の「桜通り」ここは例年桜まつりで大賑わいの場所ですが今年は中止ですね。道がせまいので車で通ると時々空が見えなくなるほど枝を張っている木があります。すこしピンクがかった花は満開です。八柱霊園の脇の桜並木はこのところ随分伐採されていますので以前ほど空一面といったことはありませんがそれでも市立松戸高校から西に向かう方は少し坂になっているせいもあり桜天井を味わえます。学校の校庭も花盛り。大岡信は「花というものにはパっと咲きパットと散るときの両方があって、その両方は芭蕉風にいえば「不易」と「流行」の両面なのだがそれを一語で表しているところが花ということばが愛された理由だ」という。毎年同じように咲く花なのだがその都度印象が違うのは自分の心の移り変わりなのか「おしなべて花のさかりになりにけり山の端ごとにかかる白雲:西行」

3月23日 西行桜

1190年2月26日新暦に直すと3月23日の今日私の好きな西行法師が河内国弘川寺で72年の生涯を終えました。桜花は今を盛りに咲いていますが西行は死ぬのならこの時期と予言しその通りになったと当時の人々は感心しきりだったとか。花狂いの彼にはたくさんの歌が残っています。各人好きな歌は色々あるのでしょうが能「西行桜」のテーマになっている「花見にと群れつつ人のくるのみぞ あたら桜の科には有ける」は彼らしい歌です。当時の人達も花の下で宴会をしていたのかどうか知りませんが少なくともお花見には大勢がでかけたのでしょう。それを西行は一人で桜に浸っていたいのに煩わしい限りだ、桜の科ではないがと文句を言っているのですね。芭蕉は彼の足跡を辿り奥の細道に出かけたようですがそれより500年ほど前西行は69歳で東大寺の勧進の為奥州藤原氏を頼り平泉まで行っています。元気、興味一杯、色気あり、花狂い、とても枯れた爺ではなかった筈です。