来年の大河ドラマ「青天を衝け」ちなみ
渋沢栄一と徳川昭武の関係探る
戸定が丘歴史公園でプレスツアー開催

紙芝居「幻の将軍 徳川昭武」を口演したヤムちゃん(左)と原案を作った学芸員の小川滋子さん

 2021年のNHK大河ドラマは「青天を衝(つ)け」。主人公は「日本近代資本主義の父」といわれる渋沢栄一。多くの業績を残すことができた背景のひとつには、28歳で参加したフランス随行体験があったともいわれている。そのフランス使節団を15代将軍・徳川慶喜の名代として率いたのが、後に戸定邸を建てて松戸に移り住んだ最後の水戸藩主で慶喜の弟・昭武だった。松戸市シティプロモーション担当室では、「2021年大河ドラマがもっと面白くなるように」とのコンセプトで、渋沢栄一の命日にあたる11月11日に新聞、通信社、雑誌、WEBニュース、地元メディア、業界紙、テレビ・ラジオ制作関係者など23媒体39人(インフルエンサー10人を含む)を招いてプレスツアーを開催。徳川昭武の生涯やライフスタイルなどを紹介した。【戸田 照朗】

昭武の陣羽織について解説する齋藤洋一名誉館長

 プレスツアーは2部構成。第1部では、戸定歴史館の齋藤洋一名誉館長が徳川昭武と渋沢栄一との関係などについて解説した。
 昭武がパリ万博のために渡欧するに際して着用した、緋羅紗地三葉葵紋陣羽織(ひらしゃじみつばあおいもんじんばおり)も特別に公開された。
 戸定歴史館では今後、徳川昭武と渋沢栄一に関する展示も企画していきたいという。
 また、松戸市教育委員会と戸定歴史館が監修し、㈱漫画家学会が制作した紙芝居「幻の将軍 徳川昭武」も初披露された。徳川昭武の生涯をつづった内容で、フランス万博渡欧と留学、倒幕と帰国、水戸藩主を経て、隠居の地である戸定邸に住まうまでを紹介している。途中にクイズを織り交ぜながら演者と対話形式で行われる。
 口演は同社所属のプロ紙芝居師集団「渋谷画劇団」の「ヤムちゃん」こと山田一成氏が担当。松戸手作り甲冑愛好会が制作した紙素材の甲冑を身にまとい、巧みな話術で笑いをとりながら口演した。
 昼食には、矢切ねぎや白玉など松戸の特産品のほかに水戸徳川家の梅じゃこごはんなどが入った「戸定邸弁当」(徳川文武氏考案、「割烹しの田」作)と、松戸市戸定歴史館とサザコーヒーが史実に基づきモカをフレンチローストで仕上げた「プリンス徳川カフェ」などが振舞われた。
 徳川昭武がカフェ(珈琲)と出会ったのは1867年パリ万国博を契機とした渡欧においてであったといわれている。パリへの船中やシェルブールの海岸で珈琲を味わい、自筆仏文日記に、港町「モカ」を珈琲の名産地と記している。昭武や随行した渋沢栄一、杉浦譲たちは珈琲を愛飲していた。
 第2部では、松戸駅周辺を散策。コーヒー店やパン屋、松戸ビール、根本壁画通り、松戸神社などを巡った。
 参加者には、おみやげとして鵜殿シトラスファームの「新松戸レモン」、加藤ぶどう園のキウイ、今冬オープン予定の北欧テイストの焼き菓子店「ピッククッカ」のお菓子が手渡された。

激動の幕末を生きた徳川昭武

昭武や渋沢が飲んだ珈琲を再現した「プリンス徳川カフェ」

 戸定邸の主となる徳川昭武は嘉永6年9月24日(1853年10月26日)、江戸の水戸藩中屋敷(現在の東大浅野キャンパス)で水戸藩主徳川齊昭の18男として生まれた。後に昭武の人生に大きな影響を及ぼす慶喜は7男で、16歳上の異母兄であった(齊昭は37人の子を成している)。昭武が生まれた1853年は、ペリーが浦賀に来航し、日本に開国を迫った年だった。
 政治が混迷する中で、1858年13代将軍家定が死去。幕府内には血筋を重視して紀伊藩主慶福(よしとみ、後の家茂=いえもち)を推す一派と、能力重視で聡明な慶喜を推す一派が対立。結局、14代将軍には家茂が就くが、安政の大獄を経て、慶喜は3年の沈黙の後、将軍後見職に就任。1864年、昭武は10歳の時に、京都御所を警護していた兄の昭訓が亡くなったために、上京し水戸藩兵の将となった。この後、長州藩が御所を砲撃した禁門の変が起こり、慶喜、昭武の兄弟はともに御所を守った。

ヨーロッパ歴訪とフランス留学

 1867年、慶喜は15代将軍となった。当時、幕府はフランスとのつながりを深めていたが、慶喜は翌年のパリ万国博覧会への正式参加を決め、将軍の名代として当時13歳の昭武をパリに派遣することを決めた。この時の使節団には渋沢栄一など、維新後日本の近代化に貢献した英才が含まれていた。
 パリ万博に日本は武器、装束(礼服)、漆工芸品、焼き物、油絵を含む絵画、建物の模型など推定10万を超える品を出品。日本のパビリオンは大好評で、ヨーロッパにおける日本熱「ジャポニズム」の契機ともなった。日本は、初参加にもかかわらず、最高賞のグランプリメダルを得ている。
 パリ万博での主要行事が終わると、昭武はスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、英領マルタ島、イギリス各国をめぐり、イギリスの新聞などでは、次期将軍の期待を込めて「プリンス・トクガワ」として紹介されている。
 慶喜は昭武にそのままフランスに残り、長期留学することを命じている。慶喜は幼少のころから有能な弟昭武に大きな期待をかけており、西洋の先進文化を習得させようとした。
 フランスでの昭武の毎日は朝6時に起きて、9時に就寝するまで終日勉強漬けの毎日だったという。フランスの教育責任者ヴィレット中佐の統括のもと、フランス語、射撃、馬術などの教科の時間割が決められた。
 しかし、その頃日本では大きな政変が起きていた。大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争、江戸無血開城である。昭武がフランスで猛勉強をしている最中、幕府は終焉を迎えた。
 昭武は新政府の帰国の命令を受けて、志半ばでフランス留学を終えることになった。

松戸徳川家創設

 帰国した昭武は15歳で水戸藩主、16歳で水戸知藩事となるが、2年後の1871年には廃藩置県で水戸藩自体がなくなった。
 明治9年(1876)、昭武はフィラデルフィア万博御用掛として渡米し、万博終了後に政府に願い出て、パリ留学を再開した。この留学は5年に及び、帰国後はその知識を生かして、麝香間伺候(じゃこうのましこう)という公職を得て、明治天皇に近侍した。
 明治16年(1883)5月、昭武は29歳で水戸徳川家の家督を甥の篤敬に譲り、隠居。翌年完成した戸定邸に移り住んだ。昭武はフランスに再留学する前から狩猟に訪れるなど、松戸の自然に親しんでいた。明治25年(1892)には、昭武の勲功により、満3歳になる二男武定が分家して子爵を授けられ、松戸徳川家を創設した。
 昭武は松戸で趣味の銃猟、魚釣り、作陶、写真撮影を楽しんでいたが、兄の慶喜も戸定邸を度々訪れて一緒に趣味を楽しんでいる。
 敗軍の将となった慶喜は維新後30年間静岡で隠棲生活を送っていたが、明治30年(1897)東京に移り住んだ。その翌年には維新後初めて明治天皇に謁見。明治35年には公爵の爵位を授けられた。このころになると慶喜の評価は一転し、明治維新最大の功労者として名誉回復が行われた。
 慶喜と昭武が撮影した多くの写真は当時の風俗を知ることができる貴重な資料となっている。ごく一部の富裕層しかカメラを持てなかった時代、二人がレンズを向けたのは、明治時代の松戸の風景や農村の暮らし、農民や漁民が働く姿だった。二人は田舎の静かな風景を好んだらしく、戸定の丘を下りればすぐにある松戸宿の写真はほとんどなく、少し離れた古ヶ崎村の風景などが多い。働く農民や遊ぶ子どもに向けられた目線には、ミレーのような温かみを感じる。
 松戸徳川家の当主となった武定は父昭武が残した資料を整理し、まとめることに尽力した。昭和26年(1951)には、戸定邸を松戸市に寄附した。市は平成3年(1991)に周囲を戸定が丘歴史公園として整備し、松戸徳川家伝来の資料は戸定歴史館で調査、研究、展示が続けられている。戸定邸は平成18年(2006)国の重要文化財に、庭園は平成27年(2015)国の名勝に指定された。
 ※参考資料=「徳川昭武│松戸に住んだ幻の将軍│」「プリンス・トクガワ」(松戸市戸定歴史館)

徳川昭武(松戸市戸定歴史館提供)

マルセーユでの徳川昭武一行。中央で椅子に腰かけているのが昭武、後列左端が渋沢栄一(松戸市戸定歴史館提供)

緋羅紗地三葉葵紋陣羽織
(松戸市戸定歴史館提供)

重要文化財の戸定邸と国の名勝に指定されている庭園

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