渋沢栄一の郷里もネギの産地
松戸のネギ栽培の始まり

矢切の葱畑(川村博文さん提供)

 渋沢栄一の故郷は武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)だ。深谷市はネギの産地としても有名だ。松戸市は矢切ネギの産地として有名で、この点で両市には共通点がある。松戸は江戸川に面した街だが、深谷市は江戸川の上流の利根川に面している。水分が多く栄養分の豊富な川沿いの耕地がネギの栽培に適していたようだ。【戸田 照朗】

 矢切葱のルーツは江戸の砂村(現在の江東区北砂、南砂、新砂、東砂あたり)にあるという。戦国時代の終わりに徳川家康が入府して都市化を進め、100万人の大都市となった江戸。砂村新左衛門に率いられた一党は、現在の横浜市、横須賀市で新田開発を行った後に、砂村に移住し、その経験と技術で野菜の一大生産地に育てた。郷里の摂津から様々な野菜の種が持ち込まれたという。
 江戸に伝わった葱は葉葱(西日本でよく食べられている柔らかく細い葉の部分を主に食べる葱)だったようだが、関西地方よりも寒い江戸では、秋から春先に収穫する葱(冬葱)は霜枯れになってしまった。ところが、土の中の白い部分がおいしいということが分かり、食べられるようになった。農民は白い部分を長くするために、30センチほどの溝を掘って苗を植え、成長に合わせて土を盛り寄せてゆくという葱(根深葱)を生み出した。
この砂村葱は幕末の嘉永年間(1848~1854年)に金町村や北埼玉地方などに種子が伝播され、千住市場に出荷され「千住葱」として有名になっていった。金町村というのは松戸の隣の葛飾区金町で、昭和の中期までは葱の生産地として有名だったという。
 いつ矢切に砂村葱が伝わったのかについては、諸説があり定かではない。古いものでは、嘉永年間に渋谷熊次という方が柴又の島崎某からゆずられた種を持ち帰ったという説があるほか、高安新一郎さんが私家版として書いた「葱栽培五十年のあゆみ」(昭和40年刊)によると、明治初年に4~5人の農家が日本橋人形町の水天宮に参詣した帰りに砂村に立ち寄り、農家(音右衛門)から種子をもらい、栽培の要領を聞いて、自家用として栽培を始めたという。
 その後、下矢切のいくつかの有力農家で栽培技術が進み、明治40年代になると農産物の品評会で入賞するようになり、矢切葱が高級品種として認められるようになっていった。
種については依然として砂村から購入していたが、大正6年(1917)に下矢切の12戸の農家が千葉高等園芸学校(現在の千葉大学園芸学部)の教授で千葉農事試験場の技師だった大島亨氏の指導のもとに「下矢切葱採種出荷組合」を組織。砂村から「赤柄」「合い柄」「黒柄」(緑色が濃いのが黒柄、最も淡いのが赤柄、その中間が合い柄)の原種を購入し、各品種を試験栽培し、冬葱として合い柄種(矢切葱)を採種することができたという。昭和初期には全国にその種子が分布するようになった。
 昭和20年代後半から30年代にかけて、平川万吉さん、孝一さん親子、高安新一郎さんが全国農林産物品評会で農林大臣賞を受賞するなどして、「矢切葱」が高級ねぎのブランドとして確立していった。
 しかし、昭和37年に葛飾区東金町の長谷清治さんが品種改良した「金長葱」が品種登録され、全国的に販売されるようになると、「矢切葱」の種は売れなくなっていった。「矢切葱」の種は、農家で自家採取されたもの。「金長葱」は一代交配の種子で、品質の揃った育てやすい種子だった。その後、矢切の農家でも毎年種苗業者から種を購入して葱を栽培するようになっていった。
 葱の栽培にとって適しているのは、水分が多く、肥沃な利根川水系の洪積地だという。矢切耕地も葱栽培が盛んになる前は水田だった。埼玉県の深谷や以前は一大産地だった金町も利根川水系にある。
 松戸市には台地が多く、かつては矢切の台地にも畑が広がっていたが、都市化のため、今は住宅地となっている。
 葱栽培は松戸市全域で行われており、市内では周年で葱の出荷が行われている。矢切地区が秋・冬葱で11月~3月出荷。和名ヶ谷・千駄堀・六和地区が春葱(おくねぎ)で、4月~5月に出荷。六和・五香・六実が6月~7月に、紙敷が8月~10月に夏葱を出荷している。夏葱は「坊主知らず」が主力で、あまり土質を選ばない品種だという。また、小金地区では、昭和50年ごろから、それまでの根深葱に代わり、軽くて高く売れる葉葱の栽培が盛んとなり、「あじさい寺」(本土寺)にちなんで「あじさいねぎ」として出荷されている。
 ※『やきりの話 附やきりねぎの話』(石原修)を参考にしました。

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