「小金城と根木内城」展
市立博物館で3月22日まで開催

1962年の小金城の本城(ほんじょう)地区の発掘

 松戸市立博物館(21世紀の森と広場隣接)で、3月22日まで、館蔵資料展「小金城と根木内城」が開催されている。両城は戦国時代に東葛地域を拠点に隆盛を誇った高城氏が居城とした城。松戸の戦国時代をひも解く貴重な機会となりそうだ。【戸田 照朗】

高城氏と戦国時代の松戸

 高城氏で実名が確定できるものは5人しかいないが、16世紀の4人は、胤忠、胤吉、胤辰、胤則と「胤(たね)」の字がつく。これは千葉氏に共通する特徴。千葉氏は関東に定着した平氏の一族で鎌倉幕府の創設に貢献した。高城氏が千葉氏の一族から出たのか、それとも家臣団の中から認められて「胤」の字を使うことを許されるようになったのかは分からないが、千葉氏一門としての扱いを受けていたことは確かなようだ。小金城を築城したといわれる高城胤吉の妻・桂林尼は佐倉城主千葉昌胤の妹である。
 高城氏の祖となる胤雅はひところ肥前国(佐賀県)佐嘉(賀)郡の高城村(大和町。市町村合併で現在は佐賀市)に居住したので、高城を名乗るようになったという。
 高城氏が下総国に帰国したのは60年間続いた南北朝の争いが終わった正長元年(室町時代の1428年)だったという(寛正元年=1460年との説もある)。高城氏は熊野新宮の侍だったという伝承もあり、帰国の途上、一時熊野(和歌山県)にいて、様子をうかがっていたのかもしれない。
 高城氏は安蒜、鈴木、座間、田口、血矢(染谷)、田嶋(戸辺)、池田、小川、斉藤、藤田など多くの家臣を引き連れて栗ヶ沢に入ったという。栗ヶ沢には高城氏の館があったというが、その跡を思わせるような遺構は見つかっていない。
 寛正3年(1463)には、高城胤忠が根木内に本格的な城を建設して、ここを本拠とした。その跡は一部が根木内歴史公園として保存されている。また、近くには出城的砦として行人台城があった。ここでは、激しい戦闘が行われた。
 さらに高城胤吉は大谷口にこの地方最大級の小金城を築いた。工事は亨録3年(戦国時代の1530年)から始まり、7年後の天文6年(1537)に完成したという。ただ、高城氏の前にこの地域を支配していた原氏(同じく千葉氏一門と思われる)が小金城を出た後に高城氏が城主となったという見方が有力なので、この工事は大改修工事といったものだったのかもしれない。小金城も大谷口歴史公園として、その一部が保存されている。
 京都に室町幕府を開いた足利尊氏は関東経営のために鎌倉府を置いたが、この組織は構造的に対立が生まれやすく、関東での火種を多く生んでゆくことになる。
 永正15年(1518)には、古河公方足利高基と弟の義明が対立。義明は原氏と高城氏が守る小弓城(千葉市)を攻撃した。小弓城で苦杯をなめた原氏と高城氏は、千葉氏とともに小田原の北条氏に接近するようになった。義明側は、安房国の里見氏と連携するようになり、両軍がついにぶつかったのは天文7年(1538)10月7日。松戸中央公園のある相模台や松戸駅周辺が激戦の場となった(相模台合戦)。この戦いは多くの軍記物語に描かれているが、それによれば北条軍は7千騎、義明軍は3千騎だったという。午後4時から3時間に及ぶ激戦の末、義明軍は義明本人、嫡子、弟も戦死し、滅亡した。

根木内城の厳重な障子堀(しょうじぼり)

 この戦いの結果、原氏は小弓城に戻ることができ、高城氏が小金城の主となった。
 永禄7年(1564)正月、江戸城の北条氏直臣遠山氏と高城氏は里見氏が兵糧の調達に手間取っていることを察知し、今こそ討ち取るべきだと北条氏に進言する。戦を決意した北条氏康は電撃作戦を敢行した(国府台合戦)。
 8日午前8時頃、矢切の渡しのからめきの瀬を北条軍が渡り、大坂(野菊の墓文学碑のある西蓮寺下の急坂)あたりで里見軍と戦闘が始まった。結果は里見軍の大勝。しかし、その夜、大勝で油断していた里見軍を北条氏政の軍が包囲し、夜襲をかけた。里見軍は徹底的に打ちのめされた。
 小金城の高城胤辰は、この合戦の功労で二合半領(三郷市)、葛西亀井戸、牛島から行徳、船橋に及ぶ所領を与えられ、従五位下下野守に任ぜられた。
 ※参考文献=「松戸市史 上巻(改訂版)」(松戸市)、「改訂新版松戸の歴史案内」(松下邦夫)
 ※写真提供=松戸市立博物館

展示概要と野外見学会

 同展は観覧無料。月曜・第4金曜休館(月曜が祝・休日の場合は開館し、翌平日休館)。
 前半は2つの城跡の発掘調査で発見された多彩な陶磁器・土器・漆器などの生活用具を中心に展示。同じ戦国時代の絵巻物「酒飯論(しゅはんろん)絵巻」の写真を引き伸ばして展示し、道具の使われ方が確認できるように展示される。
 後半は昨年8月に市指定文化財に指定された「西原文書」と「豊前氏古文書」など計13点の古文書を展示。理解するのが難しい古文書だが、マンガや地図を使うなど解説に工夫を凝らすことで、下総国や東国の戦国時代、庶民がどのような立場に置かれていたかを探るという。
 前半と後半を繋ぐものとして、小金城跡と根木内城跡それぞれの大型模型を並べて、古い空中写真、発掘時の遺跡写真などとともに、2つの城の役割を考える。
 また、関連企画として、野外見学会「小金城・根木内城を歩く」が3月15日、12時30分から16時まで行われる(荒天時は3月21日)。
定員40人(抽選)。希望者は、2月1日から27日(必着)の間に、博物館ホームページ、または往復はがき(1人1枚)に、郵便番号、住所、氏名(ふりがな)、電話番号、返信用宛名を記入して、〒270-2252松戸市千駄堀671、市立博物館「小金城・根木内城を歩く」係へ。
 問い合わせは、☎047・384・8181市立博物館まで。

北条氏康の電撃作戦命令は高城氏の通報から(西原文書)

里見軍の松戸攻撃は畑荒らし(豊前氏古文書)

3つの耳状の突起に紐を通して吊った内耳鍋

地鎮用に輪宝(りんぼう)を描き、柱穴に埋められたカワラケ

和え物や漬物が相応しい灰釉端反皿(かいゆうはぞりざら)

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