本よみ松よみ堂
サヘル・ローズ著『「言葉の花束」困難を乗り切るための〝自分育て〟』

 サヘル・ローズさんを初めて観たのは、もうずいぶん前、夕方のテレビの情報番組だった。外国人2人と食べ歩きのようなことをしていた。
 今は、日曜日のTBSサンデーモーニングのコメンテーターとして、多様性や難民支援の話をしていたり、舞台で俳優もされていると聞く。何度かラジオからもお声を拝聴した。
 最初にテレビで観た時の明るい印象と、今の静かに難しい問題を話されているときの印象はずいぶんと違うが、この本を読むと、今の姿が、よりサヘルさんご自身に近いのだろうと感じる。
 サヘルさんはイランで生まれた。イラン・イラク戦争で孤児となったサヘルさんは4歳から7歳まで孤児院で育った。生年月日も本当の名前も分からない。多くの子どもがいる施設では、だれも自分だけを見てはくれない。自分の中にもう一人の自分を作って会話し、大人に嫌われないように、大人の顔色をうかがいながら過ごしていた。
 7歳の時に当時大学生でボランティアをしていたフローラさんが施設を訪れ、1年をかけて養子縁組の手続きをして、養母になった。
誰の瞳にも映らなかった自分が、初めて誰かの瞳に映った瞬間。
 サヘル・ローズという名前もフローラさんがつけてくれたという。
 意味は、ペルシャ語で「砂浜に咲くバラ」。「バラは砂浜に咲くことができない。アナタが大人になってどんなに過酷な状況下に置かれても一輪のバラのように凛と咲いて」という願いが込められているという。
 フローラさんとサヘルさんは日本に来たが、苦難は続く。住む場所もなく、公園で生活していたことも。フローラさんは、裕福な家庭に育ち、大学院に行き、大学教授になるのが目標だった。しかし、日本では低賃金の単純労働しかなかった。サヘルさんも小学校に入学するも、日本語が分からずに授業についていけない。中学校では、3年間いじめられた。
 本の中では、日本の児童養護施設に暮らす子どもたちや、いじめられている子どもたちに語りかけるような言葉も多い。
 助けてくれる人たちもいた。保健室登校ならぬ校長室登校で、マンツーマンで日本語を教えてくれた校長先生。自宅からありったけの食べ物を持ってきてくれたスーパーの試食コーナーのオバさん。母子が公園で生活していることを知った給食のオバちゃんは、二人を自宅に住まわせ、服や自転車も買ってくれた。サヘルさんは今でもオバちゃんの手料理を食べに行くという。
 フローラさんは、多くのものを犠牲にしてサヘルさんを守ってきた。そして、「絶対にイラクを憎んでは駄目」、イラクに行って「戦争によって孤児になってしまった人たちに会ってきなさい」と言う。また、「サヘル、いじめられているからといって、相手を憎むことをやめなさい」と言う。サヘルさんが影響を受けたフローラさんの言葉も多く紹介されているが、フローラさんのこの深い思想はどんなところから生まれてきたのか。あまり説明されていないが、気になった。そのフローラさんが、病気を患っているという。もしもの時の、サヘルさんの喪失感を考えると、とても心配になる。
 孤児院のくだりで、「普通の子どもにはないような心の空洞があって、その空洞がいまだに塞がらない」と書かれていた。
 サヘルさんの大変な経験と比べるのはとてもおこがましいのだが、「心の空洞」という言葉に私にも思い当たるものがあった。
 私は難しい病気で、2歳から7歳まで病院を出たり入ったりしていた。病院は都市部にある大きな病院で、田舎に住んでいた共働きの両親はたまにしか会いに来られなかった。3歳までは祖父が付き添ってくれたが、4歳か5歳になると「完全看護だから」という理由で、付き添いが許されなかった。病院では「死」が身近にあった。小児科の大部屋と大部屋の間に小部屋があり、小部屋に移された子どもは、戻ってこなかった。私も見知らぬ大人の中で幼少期を過ごし、1年遅れて入学した小学校では薬の副作用でパンパンに腫れ上がった顔(ムーンフェイス)のために、一部の子どもたちから、いじめられた。
 ずっと心の中にポッカリ空いた「空洞」があると自覚していて、それが時々スース―と痛みを発した。「あれ? いつの間にか空洞が塞がっている?」と感じたのはいつの頃だろう。中年にさしかかる頃だったろうか。何が原因で塞がったのかは、いまだによくわからない。【奥森 広治】

講談社 1300円(税別)

あわせて読みたい