松戸の散歩道①
根本から上本郷の七不思議を歩く

池田弁財天
 市庁舎の裏、教育委員会が入っている京葉ガスビルの隣にひっそりとある池田弁財天。昔は、一面の田んぼで、水が出ると池のようになったので、池田という地名があるという。
 入口から50もの鳥居がトンネルのように連なり、信仰の篤さをうかがわせる。俗説かもしれないが、鳥居のトンネルは女性の産道をあらわしていると聞いたことがある。弁天は女性神でもある。中にはいると、池とお堂がある。池には鯉と亀がいる。お堂には線香とロウソクが供えてありこれをいただいて火をともす。「おん そらそば てい えい そわか」という言葉をとなえつつ祈願する。
 信者の方だろうか、掃除をされている年配の方に出会うこともある。境内はいつも美しく保たれ、頭が下がる思いである。
 境内には、蛇の置物がたくさん奉納されている。首のないものもある。願かけに首を取って持ち帰り、願いがかなうと新しい置物を奉納する習わしがあったのだという。
 平潟遊郭があった時代には、巳(み)の日に遊女がそろって参拝し、下の病気にならないように、お客がよく来るように祈願したという。ちなみに、平潟神社(水神社)とその隣の来迎寺も遊女たちの信仰を集めていた。

池田弁財天の鳥居

池田弁財天の境内

金山神社
 新京成電鉄の線路を挟んで市役所の隣にあり、市庁舎の屋上から下を見ると緑に覆われた小山がある。これが金山神社だ。市庁舎の裏の道(池田弁財天の前の道)から踏切を渡って、JR常磐線に突き当たり、左に折れるともう境内だ。祭神は金山比古命。
 高城播磨守により築城された根本城の一部とも言われる。この小山全体が富士山を模した富士塚であり、ぐるぐると参道を登って、「登山」が出来るようになっている。参道には何合目と刻まれた石も置かれている。社殿のある辺りは2合目か3合目あたりだろうか。中腹には小御嶽大神が祀(まつ)られている。いたるところに溶岩があり、富士塚の特徴を示している。頂上には富士嶽淺間大神が祀られている。山のマークの下に「清水」と記された碑がいくつもあり、講(参詣のための信者団体)に参加した人の名前がずらりと記されている。その昔は、ここから富士山がよく見えたことだろう。
 常磐線を渡る鉄製の歩道橋があり、線路の反対側の旧水戸街道側に門がある。常磐線が通る前は、旧水戸街道の方から参道がのびていたのではないだろうか。歩道橋の下をのぞいてみると、石の階段が鉄の歩道橋の下に飲み込まれるように消えていた。開発の中で生きてきた松戸の神社の側面を見たような気分である。
 金山神社には伝説がある。『松戸の歴史案内』(松下邦夫)によると、神社の上のところに「かくれざとう」というところがあり、弘法大師(空海)が籠もって薬師如来を刻んだという。木の最も根本に近いところで刻んだものを安置したので、ここの地名を根本という。その薬師如来像は、金山神社の歩道橋を渡った線路の反対側にある吉祥寺の薬師堂に安置されているが、秘仏のため見ることはできない。吉祥寺境内には弘法大師の立像もある。
 市内には中根という場所があるが、弘法大師が同じ木の中ほどの部分で作った薬師如来像を安置した寺院があったことから中根の地名が生まれたという。末の部分で作ったのが印西市の薬師様だと伝えられている。

金山神社

吉祥寺

雷電神社
 旧水戸街道を歩き、金山神社の先の歩道橋を渡る。少し歩くと雷よけのご利益があることで知られる雷電神社がある。近隣の他市からも農家が「下がりもの」と呼ばれるナシ、ナス、キュウリなどを持って訪れたり、東京電力松戸営業所も祈願を行っていたという。
 同神社には、雷にまつわる黄門さまの伝説が伝わっている。平成10年に松戸よみうりの奥友彦記者(当時)が地元の染谷清治さん(当時65歳)に聞いた話では「光圀が江戸から水戸に向かう途中、お宮(雷電神社)の前を通ると大神様(雷)が鳴って、どうしようもなかった。それで、お宮のご神体の分身を水戸に持っていって祀りこんだら、その後は雷が鳴らなくなった」という。
 『松戸のむかし話』(岡崎柾男)にはこんな話が出ている。
 あるとき、馬に乗って出かけようとしていた黄門さまが、お供の者に「雲一つない、いい天気だ」といった。高く澄み切った気持ちのいい秋の空だったが、いたずら好きの雷が遠くの黒雲の上で話を聞きつけた。雷は、「それなら困らせてやろう」と黄門さま一行の真上でゴロゴロやりながら雨を降らせ、黄門さまたちの頭の上をしつこくつける。しかし、調子に乗って低く飛びすぎ、竹ヶ花で松の大木にぶつかり、雷は地べたに落ちてしまう。すかさず黄門さまのお供の侍たちがつかまえ、怒った黄門さまは雷を十年間、がんじょうな鉄のお堂に閉じ込めてしまった。十年後、許されてお堂から出された雷は、嬉しさのあまり、七日七夜も太鼓をたたいて、雲の上で踊り続けたという。
 同神社では神様が嫌っているので、境内に松の木は植えていないという。伝説と関係があるのだろうか。
 同神社の入り口には昭和17年(1942)に落雷を受けた杉の木の一部が残っている。この杉の木は間もなく御神木とされた。
 神社隣の市役所竹ヶ花別館の駐車場に松戸市農業協同組合が整備し、市に寄贈した「竹ヶ花雷電湧水」がある。雷電神社の境内にも池があるが、台地下のこの地域には湧水が多いのかもしれない。
 雷電神社から旧水戸街道を上本郷方面に歩くと、やがて現代の水戸街道・国道6号線に突き当たる。国道6号線の右側の丘の上が上本郷で、この地域に伝わる7つの伝説(上本郷の七不思議)を紹介する(「七不思議」のうち、残る5つは次回以降に紹介する)。

落雷を受けた雷電神社の御神木

竹ヶ花雷電湧水

ゆるぎの松
 むかし、上本郷の花台に樹齢200年の枝ぶりのいい松があった。近くを通りかかった水戸の黄門さまが、松の幹をなでると、まるで生き物のようにゆらゆらと揺れ動いた。黄門さまは松に「ゆるぎの松」と名前をつけたという。
 この松は大正の末頃枯れて、その後は根だけが残っていた。
 国道6号線沿いのJAとうかつ中央の前を少し松戸方面に歩き、左に入る道をゆくと坂になり、小高い丘の上に墓地がある。以前は墓地に登る階段の前の道端に「上本郷七不思議 ゆるぎの松 待つ馬の坂 胎蔵院跡」と記された石碑があったが、今はない。墓地の中に地元の人が建てた「上本郷七不思議の一にして大正十三年八月二十四日夜樹齢つき倒る」と記された、揺の松遺跡の碑がある。

揺の松遺跡の碑

斬られ地蔵
 むかし、上本郷の覚蔵院境内で盆踊りがあった時のこと、見知らぬ大男がひときわ見事に踊っていた。娘たちはすっかり見とれてしまい、村の男たちは面白くなかった。酒が入っていたこともあり、村一番のけんか早い男が刀でその男を斬り付けたところ、不思議なことに火花が散った。そして、大男は悲鳴をあげて暗闇の中に消えてしまった。翌朝、村人が後片付けに訪れると、境内の石地蔵に生々しい刀傷が残っていた。「昨夜の大男はお地蔵様だったのか」「これは大変なことをした」と、みな震え上がり、地にひれ伏してあやまった、という。
 覚蔵院は明治神社の近くの花之台公園にあったが、お地蔵様は本福寺境内に移されている。見ると、顔に斜めに刀傷のような跡がある。
 また、本福寺の入口には「吉田松陰脱藩の道」という碑がある。吉田松陰は、嘉永4年(1851)、江戸の長州藩邸を脱走し、松戸に来て本福寺に泊まり、東北地方を目指した。
 吉田松陰と松下村塾の教え子・高杉晋作を主人公にした司馬遼太郎の小説『世に棲む日日』(文春文庫)には、本福寺に宿泊した時の次のような一節がある。
 「松戸に一泊した。宿は追手をおそれるがために旅籠をさけ、里人の紹介を得、わざわざ松戸の宿場から東北半里の山中にわけ入り、本郷村に入り、そこの本福寺という寺の山門をたたき、住職にたのみこんでとめてもらった。住職は了音(りょうおん)という時宗僧で、この見も知らぬ旅人を親切にもてなしてくれた。松陰はこの点、楽天家であった。ひとの好意を天性うたがえないたちであり、そういうたちが人柄の照り映えになって、ゆきずりの他人もついこの若者を可愛くなるのかもしれない」。
 本福寺の門の脇にある「井戸坂」を降りると「上本郷湧水」(カンスケ井戸)がある。昔は水桶を背負い、苦労して水を丘の上まで運んでいたという。

本福寺の「斬られ地蔵」

上本郷湧水(カンスケ井戸)

 ※参考文献=『松戸の歴史案内』(松下邦夫)、『松戸のむかし話』(岡崎柾男)
【戸田 照朗】

あわせて読みたい