わたしのページ(読者投稿)
2023年8月27日

マイナンバーカード顛末記
 マイナンバーカードを施設にいる夫に代わり、わたしが手続きをして受け取るまでの一部始終。
 申込書に貼る写真は、顔写真の背景に何も写りこんでいない写真とのことでNGになり返送されてきた。NGなしの写真を貼りOKになり「マイナンバーカード交付通知書」が届きました。
 さて、カードを受け取る方法はどのようにしたら良いか。
 コールセンター案内に電話をし、本人が受け取りに行かれない場合の代理者が受け取る方法を伺った。本人確認顔写真を貼った書類が必要で、書類には顔写真と施設の住所、施設長の確認のサインを記した書類が必要ですとのコールセンターの返事でした。
 まず顔写真を貼る用紙を支所まで行き揃える必要があり、歩いて10分の支所に出向き、マイナンバーカードを代理で受け取る必要を説明し、顔写真を貼る用紙を、と申し込んだ。支所の30代の女性は委任状で良いと言うので、わたしはコールセンターの話をそのまま説明したが、これで大丈夫ですとのことで委任状一通をいただいてきた。
 さて、マイナンバーカードを受け取るには予約が必要です。コールセンターに電話をして代理での受け取りですと説明すると、本人確認顔写真つき証明書、後期高齢者医療被保険者証、介護保険証、マイナンバー交付通知書、通知カード、そして代理者の健康保険証、年金手帳が必要ですとのこと。支所の女性から委任状一通で良いと言われたことを説明すると、それは間違いですと言われた。
 あー、もー、この老人をどこまでイライラさせてくれるのよ。電話を切った後の不愉快さは、大好きなカルピスを飲んでも気分は晴れない。
 そして受け取り日の当日、支所の係に何も質問せず何にも言わず、コールセンター申し出通りの書類を出し、だまってただ18分待ち、夫の5・5cm×8・5cmの薄いカードを受け取り、バッグの貴重品入れにおさめた。
 マイナカードの顛末はもうひとつある。
 2万円のポイントをもらえますよと宣伝文句にあるが、今年の2月末日まで申し込みをした人が対象で、4月に申し込みをしたわたしは対象外。帰り道、正統派の入道雲を眺めながら麦茶をぐびぐびと立ち飲みをした。(匿名希望)

専大松戸の奮闘ぶりに感動
 第105回夏の高校野球選手権大会の千葉県代表として、地元の専大松戸高校が苦難の地区予選を勝ち抜いて見事代表になりました。そして、甲子園での優勝目指して奮闘ぶりを期待していました。
 初戦は山梨県代表の東海大甲府戦、7対5で見事勝利しました。次戦は隣県の土浦日大選、6対10で惜しくも敗退しました。
 しかし専大松戸の名前は永遠に不滅で、全国の野球ファンに限らず名前をとどろかせたと思います。
 本当に感動与えていただきありがとうございました。(胡録台・甲子園)

直売所の野菜美味しかった
 野菜はだいたいスーパーで買っている。直売所があると覗いてみるが、意外と値段が高いところが多い。物価高であまり懐に余裕がないので、どうしても値段を見てしまう。
 7月のはじめ、たまに歩く散歩コースに小さな無人の夏野菜の直売所を見つけた。種類や数は少なく、形がいびつなものも数多くあったが、見るからに野菜がみずみずしく、スーパーよりも安い値で売られていた。2袋ほど買って帰り、さっそく家で食べてみた。
 とても美味しかった。採りたてというのは、こういうことかと思った。すっかりここの野菜のファンになり、何度か買わせていただいたが、夏野菜の収穫が終わったみたいで、そうそうに終了してしまった。とても残念だが、ここの野菜を食べることが出来て良かった。トマト、きゅうり、ピーマン、なす。新鮮な野菜を手頃な値段で売ってくれた直売所の方に、心からお礼を申し上げたい。とても美味しく、心も身体も元気になれました。本当にありがとうございました。
 それから、スーパーの野菜に少し疑問を抱くようになった。スーパーの野菜売り場には形の良いものだけが並ぶ。形の悪い規格外の野菜を売ると、値崩れを起こすからと聞いたことがある。形が悪くても味も栄養も同じ。それなのに規格外野菜はそのほとんどが廃棄されている。
 生産された野菜の約30~40%は、規格外という理由で市場に流通せず廃棄処分されているそうだ。なんとも、もったいない話である。(ホウセンカ)

もっと意識を向けてケアしたい
 先日、買い物の途中で左ひざにズキっと痛みが走り、一歩一歩進むごとに痛みが繰り返すのである。サポーターを手に入れ、それがあっていたのか4、5日で2千歩くらいは歩けるようになった。
何か自分でケアできることはないかと数冊、本にあたってみた。すると、寝たきり、車イス生活からの回復の体験談などたくさんあった。それは、いかに足(指・裏・甲)をなおざりにしているかを教えてくれた。
 顔は1日何回も鏡で見る、手はハンドクリームでケアする。しかし、足の裏は毎日見ていたか、足指は靴下で窮屈にしていなかったか、と反省である。
 足に故障がくるか(あるか)どうか簡単にチェックする方法があるそうだ。裸足の指で直径1~3cmのペンがつかめて5秒間握っていられるかどうかである。わたしは左足ができなかった。
 それからは毎日、ペンをつかむ練習をした。足指を伸ばす、上下左右に開く、甲や足裏を叩く・ねじる・刺激する、足首を回す、5本指ソックスをはく、など取れる対策をしばらくやってみた。
 効果は2週間程度で出始めるそうだが、それより早く、1日5千歩くらいは歩けるように復活した。あまりにひどければ病院へ行くべきだと思うが、この程度ですんだのは足に意識を向けるきっかけ、これからまだ50年、歩き続ける足作りのチャンスだったのだろう。
 まだ足でパーが開けないし、指に筋力もないし、皮膚も皮がむけていたり、課題はたくさんある。足を刺激すると、全身の筋力や脳、内臓も活性化するそうだ。
 これからはもっと足に感謝し、意識を向けてケアしてあげたいと思う。
 (小金きよしヶ丘・シゲ美 51)

草むらの鳴き声は亀?カエル?
 我が家の東隣りは神社の境内です。
 その一角の池(5m角)には亀が2匹いて、時々甲羅干しをしているのを見かけます。そして辺りが暗くなると、今度は草むらから「グエッグエッ」と大きな鳴き声が聞こえてきます。それを聞いて妻が「あれは牛ガエルの鳴き声ですよ」と、動物通から聞いてきた話をしてくれました。
 ところが先日、妻が外出から帰ってきて「あの鳴き声は牛ガエルじゃあなくて、亀ですってよ」と言いました。わたしは亀が鳴くなんて聞いたこともなかったし、あんなに大きな声で鳴くのだから「牛ガエルで間違いないはずだ!」と返しました。
 さて皆さん、亀は鳴くと思いますか?
 わたしはネットサーフィンをしてみました。先ず俳句の季語として「亀鳴く」がありました。「春ののどかな昼、あるいは朧の夜に、亀の鳴く声が聞こえるような気がする」というものでした。
「鳴く」とは書いてありませんが、「グエッ・クワッ・カッ・カチッと、カエルの鳴き声のような音を発する」とありました。
 この音は、「亀が口を一瞬開けて、パクッと息継ぎをする時に発する音で、他に①アゴがこすれた音②ゲップでお腹のガスを吐き出している音③喉・鼻の掃除としてのうがいやくしゃみの音」とありました。つまりは息遣いが鳴き声の様に聴こえるだけの勘違い。もともと亀には声帯はないので、鳴けないのも当然でしたね。
 話は少しそれますが、ヘビは体全体を脱皮しますね。その抜け殻は財布に入れておくと「お金がたまる」と、こんなおまじないまであります。
 亀はと言うと、ワニと同じように足や甲羅を少しずつむけて脱皮します。それは人間でいうと古い皮膚を捨て(=あか)、新しい皮膚と入れ替わるのと同じだそうです。
 皆さん、「亀の脱皮」もご存知でしたか?(亀は一番 79)

読売新聞のコラムを読んで
 8月11日読売新聞のコラム(戦後78年)人間機雷無謀の極み、訓練で犠牲次々「ばかげた兵器」を読んだ。証言者は岐阜県の鈴木さん(93歳)。特別攻撃隊の志願者となり横須賀の訓練施設へ送り込まれた。
 人間機雷と上官から宣告され、80キロの潜水具を身につけて海底に潜み敵の船が頭上に来たら機雷を付けた棒で突く。生還を期待できない特攻兵器「伏竜」と呼ばれているものだった。海底で思わずぎゅっと目をつぶると「がんばるんだぞ母さんは見とるからな」と励ます母の顔が浮かんだ。
 1945年6月、母はわたしを身ごもった臨月の体で嫁ぎ先から16キロ離れた実家へ疎開した。頭上には、米爆撃機B29がごう音を響かせていた。どんなに怖かっただろう。何としてもお腹の子を無事、産まなくてはならないと自分を鼓舞し続けた。
 3年前に、三女(わたしの姉)を1歳で亡くしていた。はしかだった。
 終戦直前の7月、灯火管制のもと、母の姉である伯母の介添えで無事わたしは産まれた。あらためて母にはわたしを産んでくれてありがとうと感謝の意をささげたい。
 当時、銃後の守りであったはずの市井の一女性の身の上にも「ばかげた兵器」の訓練が義務づけられていた。竹やり訓練と呼ばれていた。物干竿の先端を鋭く研いで「やり」に見立てた単なる道具で、一列に並ばせた妻たちに敵を突く方法を伝授し、訓練させるというものだった。
 女一人の力で、こんな原始的なもので、銃をかまえて攻撃してくる敵に立ち向かえというのか。疑問とやるせない疲労感でいっぱいだったという。加えて、母は生まれたばかり娘(わたし)に与えるべき母乳をパンパンに腫れて痛む乳房に我慢できず絞って捨てた。ほとばしる母乳を見て悔し涙に暮れた。
 これが大戦の終局を迎える頃の我が家の有り様だった。とても訓練どころではなかったと思う。
 その時、家でわたしを子守していたのは祖父だ。空腹で泣き叫ぶ孫に手の施しようもなく、オロオロするばかりであった。
 出征した兵士の残された家族にこれだけの犠牲が課せられていた。
 これが戦争だ。
 そして77年の歳月を経て、また同じことが繰り返されている。悲しいことだ。
 わたしは小学生の頃、家の上空を飛行機が飛ぶと恐怖で押し入れに逃げ込み、ふとんをかぶっていたという。B29という言葉は年月を経て、なおわたしの脳裏に焼き付いている。(松戸 A・T 78)

 

杉本洋子さんの作品

 

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