徳川家康と松戸

 今年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。主人公の徳川家康と松戸との関係を紹介する。広く「徳川家」との関係で言えば、将軍御鹿(おしし)狩りや、戸定邸など、松戸は話題に事欠かないが、今回は家康にしぼって紹介する。【戸田 照朗】

小金原は家康の直轄地
 徳川家康は天正18年(1590)に江戸城に入り、関東の経営を本格的に始めた。
 東海随一の馬術者と言われた家康は、軍馬の重要性に着目しており、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、下総牧を直轄地として、「馬守り衆」と呼ばれていた人たちに帯刀を許して士分とした(後に、牧士と呼ばれる役人となった)。天下分け目の「関ヶ原の戦い」は慶長5年(1600)のことで、小金原産の軍馬が徳川方として活躍したものと思われる。
 小金原の歴史は古く、平安時代にまでさかのぼる。源平の合戦でも小金原産の名馬が活躍したという。
 牧に沿って周囲を測ると四十里(120キロ)ほどになった。小金牧とともに佐倉牧があり、合わせて下総牧と呼んだ。江戸時代には小金原を舞台に壮大な将軍御鹿(おしし)狩りが4回行われた。

ウサギの干支の年賀看板と制作した六実中美術部

 小金原のほぼ全体が水戸家の鷹場村に指定されていた。水戸家御鷹場役所は小金西新田(現在の小金原2~3丁目)にあった。
 千葉氏と、その一族と思われる小金城主高城氏とその家臣たちは、豊臣秀吉の関東攻めでは小田原の北条氏に味方したため、落城、離散の憂き目を見ていた。
 しかし、2代将軍の秀忠は最後の小金城主となった高城胤則の遺児・胤次を7百石の旗本として取り立てた。
 また、家康が下総牧の管理者として白羽の矢を立てたのが千葉氏の家臣だった綿貫十右衛門政家だ。
 綿貫氏はもとは四街道の山梨城の城主で、城が見晴らしのいい高台にあり、月がきれいな所と言われていたので、「月見里」と書いて「やまなし」と読ませ、これを姓にしていた。
 月見里氏は敗戦後は小金城主高城胤吉の妻で叔母である桂林尼の霊を弔うために建立された慶林寺(殿平賀)に身を寄せていた。
 家康は北条氏の家臣で八条流馬術の名手・諏訪部定吉を御馬預りとして迎えた。諏訪部と大坪流馬術に詳しい月見里十右衛門政家は小田原城籠城戦で親しくなったようで、諏訪部から月見里のことを聞いたのか、家康は慶長17年(1612)ごろ(慶長7年、19年とも)月見里を呼び出して野馬奉行(小金佐倉牧野馬奉行兼牧士支配)という大役に任じた。
 召し出された時はもう旧暦の4月になっていたが、貧乏をしていた月見里十右衛門政家は冬物の着物の綿を抜いてお目通りした。それに気が付いた家康が今後は綿貫を名乗るように言ったという。
 俸禄は30俵と決して高くはなかったが、この役目は綿貫氏の世襲で、野馬奉行役宅は旧八坂神社(現在のピコティ北小金東館のある辺り)西側にあったという。墓所は慶林寺にある。

本土寺境内にある「秋山夫人の墓所」

水戸光圀改葬前のお都摩の方墓跡に建てられた石碑

甲斐 武田家再興の夢
 家康は新羅三郎義光以来37代続いた甲斐源氏の名門・武田氏が滅亡したことを惜しみ、側室お都摩(つま)の子・信吉(家康の5男)に武田を名乗らせて小金領3万石を与えた。お都摩は甲斐武田家の家臣秋山虎康の娘で、武田家が滅んだ後、15歳で徳川家康の側室となった。お都摩の方は、天正19年(1591)に24歳の若さで病没し、本土寺の参道脇に葬られた。お都摩の死後、文禄元年(1592)に信吉は佐倉4万石に移封、さらに慶長7年(1602)に水戸15万石に移封されたが、翌年の9月に病死した。
 その後、水戸には信吉の弟で家康11男の頼房が入った。水戸黄門こと徳川光圀は頼房の3男である。後年、信吉の甥にあたる光圀は鷹狩りのため松戸地方を度々訪れていたが、その際にお都摩の墓といわれる「日上(にちじょう)の松」を発見した。日上はお都摩の法名で、墓石はなく、目印としての松の老木が生えているだけだった。光圀は遺骨を探させたが見つからず、墓土を新桶に納め手厚く供養し、本土寺の本堂脇に立派な墓石を建てた。その「秋山夫人の墓所」は、市指定文化財となっている。光圀改葬以前のお都摩の墓跡に建てられたという石碑が参道脇の工務店敷地内にある。また本土寺には、お都摩の父・秋山虎康も葬られている。
 武田信吉が佐倉領へ移封になった後、松戸村5百石には旗本の高木九助広正が入った。高木広正は早くから家康に仕え、多くの合戦で勇猛をはせた。徳川家康・織田信長の軍が武田信玄に敗れた元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは、退却する家康の馬が銃で倒されると、すぐに自分の馬を差し出して家康を救った。その子の正次も秀忠、家光に仕え、晩年は現在戸定邸がある場所に館を構えて過ごしたという。元和元年(1615)に正次が父の菩提を弔うために建立したのが松龍寺で、正次の墓も同寺にある。
 ※参考文献=「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)ほか。

松龍寺の門

 

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