松戸の地名の由来⑤

 地名はその土地の歴史と深く関係している。地名の由来を知ることは、地域の歴史を知ることでもある。あなたの街の地名にはどんな由来があるのだろうか。【戸田 照朗】

「軍都」松戸にまつわる名前
 相模台には大正8年(1919)から太平洋戦争が終わる昭和20年(1945)まで陸軍工兵学校があった。
 工兵学校は進化を続ける近代戦に対応するために、工兵専科の中隊長(大尉)クラスを対象に革新的な技術と戦略を教育し、研究させるものだった。
 教育内容や教育期間、学生人員などは適時変革されたが、太平洋戦争中は中隊長クラスの将校である甲種学生30人程度が10か月、曹長クラスの下士官・幹部候補生などの乙種学生200人が1年間教育を受けた。教育課程と研究過程に分かれ、教育はさらに築城と架橋に分かれた。工兵学校の演習場は、八柱作業場、校南作業場、相模台練兵場、江戸川架橋場、胡録台作業場があった。築城技術の演習は和名ヶ谷から稔台にかけて広がる練兵場で、架橋演習は同校付近の台地傾斜面と江戸川が利用された。
 同校のある相模台から津田沼まで鉄道連隊の演習線(軍用軌道)が敷かれた。戦後民間に払い下げとなったこの軌道は、現在は新京成線として市民の足となり、私たちの生活を支えている。
 江戸時代には宿場町として栄えた松戸だったが、明治維新後は目玉となる産業や施設もなかった。当時は軍の施設があることは住民にとって名誉なことであり、工兵学校で育った将校たちが全国の連隊に配属され、松戸は「軍都」として知られるようになった。日本で唯一の工兵学校と、隣の戸定の丘にある千葉県立高等園芸学校(現在の千葉大学園芸学部)は住民の誇りだった。
 大正15年(1926)には摂政宮殿下(後の昭和天皇)が陸軍工兵学校と八柱作業場、千葉県立高等園芸学校を見学され、松戸にとっては初めての行啓となった。
 陸軍工兵学校の八柱演習場があったみのり台駅南側は、戦後、開拓地となった。除隊したばかりの男性61人が入植し「八柱帰農組合」を作った。
 入植者の公募で、たくさんの食べ物がみのるように祈りを込めて「稔台」と命名し、「稔台農事組合」と改めたという。
 「胡録台」は、もとは松戸新田・小根本・岩瀬の各一部で、陸軍工兵学校の演習場として利用されていた地域が、第二次大戦後、帰農軍人組合に開放され、後に独立。地名は岩瀬の胡録神社による。
 「松飛台」には、飛行場があった。昭和14年(1939)正月、逓信省航空局所管の松戸飛行場中央航空機乗員養成所起工式が挙行された。県下の中学校、青年学校、警防団の生徒・団員が動員され、勤労奉仕により、翌年6月に、総面積132万3000平方メートル、東西・南北それぞれ1・2キロメートルのL字形滑走路を持つ飛行場が完成した。
 この松戸飛行場の設置の目的は民間パイロットの養成だったが、所長が陸軍少将であるなど要職は軍人が占め、時局がら、いざという時には軍事基地に代わるという性格を持っていた。実際に戦時下では帝都防空を担う陸軍の飛行場となっていた。
 戦後は当時東洋一を誇った格納庫など中枢施設を保安隊松戸駐屯部隊(現在の自衛隊)が使用し、そのほかは旧軍関係者などの開墾地となった。
 昭和36年、37年ごろには工業団地が造成され、旧松戸飛行場の名称を残して松飛台工業団地と呼ばれるようになった。
 ※参考文献(シリーズ全体)=「あきら」(グループ モモ企画、足利谷久子編集)、「角川日本地名大辞典」、「松戸の歴史散歩」(千野原靖方・たけしま出版)、「ふるさと常盤平」(常盤平団地自治会編集、常盤平団地30周年記念事業実行委員会発行)、「松戸の寺 松戸の町名の由来 松戸の昔はなし」(松戸新聞社)、「松戸史余録」(上野顕義)、「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫・郷土史出版)、「江戸川ライン歴史散歩」、「二十世紀が丘区画整理誌」(都市部開発課編集・松戸市発行)、「新京成電鉄沿線ガイド」(竹島盤編著・崙書房)、「わがまち新生への歩み」(松戸市六実高柳土地区画整理組合)、「日本城郭体系第6巻」(松下邦夫・新人物往来社)、「陸軍工兵学校」(工友会)ほか

松戸中央公園に残る陸軍工兵学校の正門

稔台開拓60年を記念して植樹された「一本杉」(稔台公園)

新京成線八柱駅近くに残る軍用軌道の境界標

胡録台の地名の由来となった岩瀬の胡録神社

正門前にある歩哨哨舎(ほしょうしょうしゃ)

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