本よみ松よみ堂
瀧羽麻子著『博士の長靴』

1958年から2022まで、64年間の穏やかな家族の物語

 「一九五八年 立春」「一九七五年 処暑」「一九八八年 秋分」「一九九九年 夏至」「二〇一〇年 穀雨」「二〇二二年 立春」という6編からなる連作短編集。
 「一九五八年 立春」は、この物語の舞台となる藤巻家に女中として入ったスミの語りで始まる。スミは中学を卒業した後、女中を何人もかかえる裕福な銀行の支店長宅に5年間勤めたが、支店長一家が関西に引っ越すことになったため、藤巻家を紹介された。スミは20歳になっている。スミはたばこ屋の2階で工場に務める兄とともに暮らしている。スミと兄は戦災孤児で、父と長兄を戦争で、母と姉を病気で亡くした。親戚をたらいまわしにされた挙句、別々に引き取られた。働けるようになった兄が迎えに来たのは5年後だった。
 藤巻家も同じように縮小の一途をたどっていた。優しくて上品な50代の「奥様」と大学の研究室に勤める息子の二人暮らし。ご主人は急逝し、娘も最近嫁いだばかり。スミは奥様の話し相手も仰せつかっている。
 1945年に戦争が終わって13年。世の中は落ち着いてきたとはいえ、まだ戦争の記憶と傷跡は生々しく残っている。今でもお手伝いさん(家政婦)という職業はあるが、女中という呼称が一般的だったのはこの時代までではないだろうか。
 この作品の短編は、長くて17年、短くて11年後のエピソードが描かれる。「この後どうなるんだろう?」といういいところで終わるため、次の時代が気になるが、次の短編に入ると語り手が思わぬ人に代わっていて、視点と舞台も変わる。語り手は藤巻家の人だとは限らず、藤巻家の隣人だったり仕事先で出会った人だったりする。
 大学の研究室に勤める息子というのが、この作品のタイトルになっている「博士」だ。気象学の研究者で、空を見つめ、思考の世界に入ってしまうと、周りの音や世界が消えてしまうような人。その研究が何の役に立つのか、といった俗な疑問は関係なく、気象の仕組みを解き明かしたいという好奇心や探究心だけで生きている。ものすごく純粋で、真っすぐで迷いがなく、ある意味とても幸せな人だ。
 一方で、理解できない人は困惑する。実の母である「奥様」も、息子のことを気が利かない人だと思っている。
 藤巻家の子や孫には、博士の性質を色濃く引き継ぐ者もいれば、真逆な性質の人もいる。だれも悪くはなく、お互いに思いやる気持ちもあるのに、すれ違いやぎこちなさが生まれることもある。
 藤巻家には二十四節気にこれをする、という決まりごとがある。例えば二十四節気の一番最初の春分には一年の始まりを祝い、お正月のおせちのかわりに、すき焼きと赤飯を食べ、家族の間で贈り物をしあうという習慣がある。短編のタイトルの年の下についているのが二十四節気だ。
 1958年から2022年まで、64年の時を経て、家族の中で引き継がれていくもの、変わっていくものが穏やかに描かれている。【奥森 広治】

ポプラ社 1500円(税別)

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