陸軍鉄道第二連隊演習線と新京成線
失われた軍用軌道を歩く

 松戸から津田沼までの新京成線の路線はカーブが多いことで知られる。営業距離26・5キロの間に25ものカーブがある。松戸~津田沼間は直線距離だと約16キロだが、松戸~新津田沼(松戸から見ると、終点の京成津田沼駅の1つ手前の駅)は、25・3キロもある。新京成線が通っている下総台地は古代から江戸時代までは野馬の放牧地で、平坦な土地だ。新京成線にはトンネルも川を渡る鉄橋もない。
 なぜ新京成線がこれほど不自然に曲がっているかというと、昭和20年(1945)の第二次大戦終結まで存在した陸軍鉄道第二連隊の演習線を民間鉄道として転用したからである。鉄道連隊には「路線四五キロをもって一運転区大隊を編成すべし」という規定があり、これに合わせて鉄道第一連隊のあった千葉~津田沼(第二連隊)~松戸を45キロにする必要があったからだと言われている。
 明治27年(1894)の日清戦争では、日本軍の後方からの補給輸送は馬の背による荷駄か荷馬車によるもので苦労したため、戦後に鉄道隊が創設されることになった。
 明治29年(1896)11月に、東京府牛込区河田町の陸軍士官学校に鉄道大隊が発足。翌年6月に中野町に移転した。明治40年(1907)には鉄道大隊は鉄道連隊に昇格し、千葉に移転。千葉・椿森に連隊本部と第一大隊と第二大隊、材料廠(しょう)が、津田沼に第三大隊が設置された。
 大正7年(1918)には、千葉の連隊が第一連隊に、津田沼の第三大隊が第二連隊に昇格した。それぞれの連隊は平時約1300人で編成。鉄道敷設、破壊、修理、運転、運輸、戦闘などの訓練を行った。
 日露戦争、第一次大戦、日中戦争、第二次大戦と続く戦争の中で鉄道隊の必要性は高まり、第一、第二連隊を母体にして生まれた鉄道連隊は第二次大戦終結時には20を数えるまでになっていた。その大半は中国大陸や東南アジアで展開した連隊で、鉄道連隊が敷設した軌道は現在も現地の鉄道路線として使われているものもある。
 鉄道連隊は、演習として千葉県内の小湊鉄道、銚子鉄道、北総鉄道、南総鉄道、京成電気軌道などの建設に出動した。鉄道会社としては材料費だけで済み、鉄道連隊としては訓練できるというメリットがあった。また、大正12年の関東大震災では、総武本線や東海道本線、横須賀線の復旧工事にも出動している。
 軌間(2本のレールの間隔)1000ミリ未満の軌道を軽便鉄道という。軍用軌道は軌間600ミリの軽便鉄道が主だったが、全線ではないものの、並行して1067ミリと1435ミリの軌間のものも敷設されていた。これは、大陸での戦闘を想定してのことだと思われるが、敷設用地を広く確保していたことは、後の新京成線の複線化の際に役立ったという。
 日露戦争後、鉄道隊は約200キロ分のレールと双合軽便機関車約100両、軽便貨車約500両を保有していた。いずれもドイツから輸入したもの。双合軽便機関車は2両の同型機関車を背中合わせにつないだもの。走行速度は機関車だけだと時速40キロほど出たが、8両の貨物をけん引しての定期運転では、時速12キロを標準としていた。また、無料で地域住民を便乗させ、事前に申し込めば荷物の輸送もしたという。
 演習線には時代によりいくつかの変遷があったが、四街道~都賀(のちに下志津~都賀)間の下志津線、千葉~津田沼間の習志野線、津田沼~松戸間の松戸線の3線が基本だった。
 松戸線は、胡録台郵便局の手前で相模台の陸軍工兵学校へ行く支線と、中の兵(なかのひょう、現在の二十世紀が丘中松町付近)へ行く本線に分かれる。
 工兵学校へ向かう支線は、大正13年(1924)に工兵学校が八柱演習場(現在の稔台付近)から相模台まで敷設した。
 鉄道連隊の本線は昭和7年(1932)までには、陣ヶ前までが完成していたと思われる。昭和9年秋の演習では千葉~津田沼~松戸(陣ヶ前)の45キロを走ったという。ただ、演習線は施設・撤収訓練を繰り返すので、常設ではなかったと思われる。区間にはいくつかの駅が設けられ、「軍用軽便〇〇駅」という立札が立てられた。列車走行時にはテントが張られ、駅長のほか転てつ手ら数人を置く臨時駅が開かれることもあったという。また、昭和16年(1941)には、中の兵から先、江戸川の川べりまで延伸されている。
 第二次大戦後、鉄道連隊の将兵は国鉄や私鉄に職を求めた。戦後、軍用軌道の活用に目を付けたのが京成電鉄と西武鉄道(西武農業鉄道㈱)で、京成電鉄には平野好紳元中佐と椎名三郎元大尉らが入社し、企画課に所属。旧軍の施設を管理していた連合軍総司令部(GHQ)との交渉にあたった。椎名元大尉は東京大空襲の際には部隊を指揮して京成線の押上~荒川間を完全復旧させている。平野元中佐は椎名元大尉の上官だった。
 西武鉄道には、高橋誠二郎元中佐、鹿間元大尉らが入社していた。結果として、京成が鉄道敷設の権利を得て、西武は機関車やレールなど貴重な資材を手に入れた。

軍用軌道を歩く

 新京成線を敷設するにあたり曲線を減らし、直線に近づけたために、当時の軍用軌道とは大きく異なる部分もある。市内では五香~八柱間と、みのり台~松戸間が大きく違っている。初富(鎌ヶ谷市)~二和向台(船橋市)も大きく違う。

五香~八柱

 現在の新京成線より北側に大きく迂回。五香~常盤平は直線距離で1・5キロのところを8キロもかけている。金ヶ作小学校の東側を通り、松戸特別支援学校の北側の住宅街の中を横断して、金ヶ作熊野神社の西側を通って新京成線の方に戻ってくる。21世紀の森と広場のフェンスと葬儀場裏の隣接地は軍用軌道の道床跡だと思われる100mほどの地盤がある。道床跡は緩やかなカーブを描きながら、やがて住宅地と森のホール21の敷地へと消えていく。
 八柱駅の踏切付近には石でできた陸軍の境界標が3本残っている。上部は赤く塗られ、よく見ると、かすかに「陸軍」と刻まれているのが分かる。踏切は短い距離に2つあるが、駅に向かって左側の歩道沿いに1本、駅に向かって右側、駅に近いほうの踏切に1本、2つの踏切の間の沿線土手に1本ある。線路の両側に境界標があるので、軍用軌道用地の広さが分かる。

みのり台~松戸

 松戸中央公園などがある相模台にあった陸軍工兵学校が敷設した稔台~松戸間の軍用軌道はほぼ同じルートを道路としてたどることができる。
 稔台には工兵学校の八柱演習場があり、軍用軌道と並行して比較的広い道路が敷かれていた。演習に使う車両などが通ったのだろう。
 稔台駅前の県道の歩道は、新京成線側が妙に広い。これが軍用軌道の名残だと以前に記者は大井藤一郎さん(元稔台連合町会長)から伺ったことがある。
 大井さんによると、ガソリンスタンドのある角を右に入るのが軍用軌道だという。鉄道の軌道は道路のように鋭角に曲がることはないだろうから、軍用軌道は滑らかなカーブを描きながら住宅街を通り、この道路に続いていたのだろう。言われてみると、確かに周辺の住宅街の道に比べれば、広く真っ直ぐな道が伸びている。

 信号のある交差点を横切り、真っ直ぐ歩くとやがて新京成の線路にぶつかり、道は左にカーブする。
 上本郷駅前までは線路沿いの道だ。上本郷駅を出ると、新京成線は右にカーブして松戸駅方面に向かい、直進する軍用軌道とはここで別れる。胡録台郵便局の前を過ぎて、信号を渡ると道は少し狭くなるが、真っ直ぐだ。国道6号線を歩道橋を使って横断し、国道の反対側に伸びる道をゆく。交差点を渡って住宅街の中の細い道を進むと相模台町会公民館がある。ここが軍用「松戸駅」があった場所だという。公民館の先は急な下り坂(崖)になっており、坂の下に陸軍の境界標がある。この境界標にはクッキリと「陸軍」の文字が見える。
 松戸中央公園の入口には、工兵学校の赤レンガ造の正門とコンクリート造の歩哨哨舎(ほしょうしょうしゃ)が残されている。

胡録台~中の兵

 工兵学校に向かう支線と鉄道連隊の本線は胡録台郵便局の手前で別れる。軍用軌道は郵便局の手前で左にカーブしてゆく。軌道は住宅街の中に消えており、はっきりとは分からないが、胡録台公園という細長い公園がある。住宅地と住宅地に挟まれてこんな形になってしまったのかと思っていたが、実は軍用軌道を公園にしたものだという。
 公園を出ると再び軍用軌道は住宅街の中に消えてしまう。市消防局の敷地を通り、個人タクシーの給油所を経て、巨大なホームセンターの敷地を通る。数年前までホームセンターがある場所にはネギ畑が広がっており、畑の中に点々と境界標の石柱が立っているのが見えたという。だが、今はその痕跡もなくなっている。
 パチンコ店がある交差点のところに文化十一年の庚申塔があるが、その左はす向かいにある道路を和名ヶ谷中学校の方に進む。この道に入ってすぐ右に紅梅の林があるが、梅林と隣接する畑の境に陸軍の境界標が立っているのが見える。境界標は、この先の病院の駐車場にも2本立っている。その先の畑と道路を隔てるツバキの垣根の根元にも境界標らしき石柱の一部が横倒しになっている。また、この先の道沿いにある農家のトタン造の納屋の端にも境界標が横倒しになっている。
 和名ヶ谷中学校の前の道を過ぎると、右側の建物のブロック塀のところに境界標が横倒しになっていた。
 この先で再び軍用軌道は住宅街の中に消えるが、陣ヶ前のバス停あたりが軍用軌道だという。「中の兵駅」は二十世紀が丘中松町あたりではないかと思われる。松戸線はこの中の兵が終点だったが、後に延伸されており、柿ノ木台小学校の近くを通り、千葉大園芸学部の下から江戸川の川べりまで伸びていた。

鉄道連隊の面影

 初富~二和向台間も大きく迂回しているが、鎌ヶ谷市東道野辺6丁目にあるアカシア児童遊園にはコンクリート製の巨大な橋脚が4本残されている。
 陸軍鉄道第二連隊本部の正門はJR津田沼駅前にある千葉工業大学の通用門として残されている。国の登録有形文化財。松戸中央公園に残る陸軍工兵学校の正門とよく似ている。
 線路を渡った反対側にある津田沼第一公園も鉄道連隊の敷地跡で、K2形機関車134号が保存されている。前述のように演習線の物資は戦後、西武鉄道が得たが、この機関車は西武鉄道が運営していたユネスコ村で保存されていたものが譲渡された。
 千葉市の千葉公園(千葉都市モノレール「千葉公園」下車)には、鉄道連隊のクレーン基礎、コンクリート橋脚、演習用トンネルが保存されている。演習用トンネルの上部には鉄道連隊の徽章(復元)が輝いている。
 この他にも、千葉経済大学構内に鉄道連隊材料廠の機関庫が残るなど、千葉市内にはいくつかの遺構が残されている。【戸田 照朗】
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 ※参考文献=『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎・崙書房出版)、『新・鉄道廃線跡を歩く2 南東北・関東編』(今尾恵介・JTBパブリッシング)、『実録 鉄道連隊』(岡本憲之/山口雅人・イカロス出版)、『昭和時代の新京成電車』(石本祐吉・ネコ・パブリッシング)、『地図で読む戦争の時代 描かれた日本、描かれなかった日本』(今尾恵介・白水社)、『軍事遺産を歩く』(竹内正浩・筑摩書房)、『ちばの鉄道一世紀』(白土貞夫・崙書房出版)、『新京成電鉄五十年史ー下総台地のパイオニアとしてー』(新京成電鉄株式会社)、『新京成電鉄』(ダイヤモンド社)、赤坂恒明氏のブログ「松戸の鉄道聯隊軍用軌道跡を訪ねて 上本郷から胡録台、和名ヶ谷を経て陣ヶ前まで歩く」

新京成八柱駅の踏切付近にある陸軍鉄道第二連隊の境界標

鉄道第二連隊のK2形機関車

 

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