松戸の文学散歩 歌碑・句碑編

 松戸の文学散歩として、与謝野晶子・鉄幹の歌碑、松尾芭蕉、小林一茶の句碑を紹介します。【戸田 照朗】

 

与謝野晶子と松戸の園芸学校

千葉大園芸学部のフランス式庭園

 平成19年11月2日から4日まで行われた千葉大園芸学部大学祭(戸定祭)で企画展示「与謝野晶子と戸定ヶ丘」が開催された。
 情熱の歌人・与謝野晶子(明治11~昭和17年・1878~1942)は大正13年(1924)6月に千葉県立高等園芸学校(現千葉大園芸学部)を訪れ、「松戸の丘」「或る日」と題して短歌60首を詠んだ。
 この事実は、千葉大や松戸市の年表、晶子自身の年表などにも記録がなかったが、元市職員で松戸の文学資料を収集・編集していた宮田正宏さんが発見、同学部に伝えた。
宮田さんは在職中、市立図書館などに勤務し、同館が発行した『松戸の文学散歩』の編集に関わった。退職後も独自に調査・収集を進めている。自身で作っている「まつど文学散歩マップ」をながめていると、千葉大園芸学部の所が空白になっており、「歴史のある学校だから、なにかあるはず」と以前から考えていた。そこで、インターネットで関連しそうなキーワードを入れて検索したところ、晶子の歌がヒットした。

千葉大園芸学部の与謝野晶子の歌碑

 晶子が園芸学校を訪れて詠んだ60首は、文芸雑誌『明星』第五巻第二号(大正13年7月発刊)に「松戸の丘」50首が、『週刊朝日』(同年7月6日号)に「或る日」10首が発表された。
 後に「松戸の丘」50首のうち40首は、第二十歌集『瑠璃光』(大正14年1月刊)に、残りの10首と「或る日」10首は『定本与謝野晶子全集』第五巻「歌集五」(講談社・大正13年)に収められた。なお、『瑠璃光』掲載の40首のうち何首かは推敲(すいこう)され、初出のものとは若干表現が改められているという。

戸定が丘歴史公園の「ひなげしの小径」の歌碑

 宮田さんが調べたところ、晶子と夫・寛(鉄幹)の盟友だった歌人・平野萬里は著書『晶子鑑賞』の中で「松戸の丘」から2首を解説しており「これは松戸の園芸学校の花畑を歌ったものである」と書いている。「松戸の丘」が相模台や矢切の丘ではなく「園芸学校」を指していたことがわかる。また、晶子が寛の作品を解説した『與謝野晶子注釈與謝野寛全集』では、「松戸の高等園芸学校の花畑であらう」と解説した歌があり、寛も晶子に同行して園芸学校を訪れていた可能性があるという。
 「松戸の丘」「或る日」60首のうち29首が、けしの花、雛罌栗(ひなげし)の歌だ。雛罌栗は5~6月に咲く小型のけし科の花で、別名はポピー、虞美人草。晶子の他の代表的な歌でも詠まれている。宮田さんは、「紅いけしの花は、情熱歌人・晶子のお好みだったと思われ、園芸学校の数ある樹木、草花の中でも特に印象が深かったのだろう」と話している。
 また、晶子は2年前の大正11年にも松戸を訪れ、「常磐木に桜まじれる下総の松戸の荘に川越えて行く」という歌も詠んでいる。60首の中には、この歌を受けて詠ったと思われる歌もあるという。
当時、高名な画家、板倉鼎(かなえ・明治34~昭和3年・1901~28)が松戸町一丁目(現本町)に住んでいた。鼎は妻の須美子と大正14年11月に帝国ホテルで結婚式を挙げたが、この時の仲人が与謝野寛・晶子夫妻である。
 「結婚式の打ち合わせなどで、与謝野夫妻が松戸を訪れた際などに、板倉が郷土の自慢でもあった園芸学校を案内したのではないだろうか」と宮田さんは推理している。
 同校は、千葉県立園芸専門学校として明治42年(1909)に開校した。大正3年(1914)に千葉県立高等園芸学校、昭和4年(1929)に文部省に移管され千葉高等園芸学校、昭和19年(1944)に千葉農業専門学校、昭和24年(1949)に国立学校設置法により千葉大学園芸学部となった。
 同校は、晶子が訪問した当時から国内唯一の園芸の専門学校として知られており、校内には欧州などの造園技術、植物栽培法などを取り入れた庭園、温室、各種実習農園など、先進的な施設があった。
 晶子の歌には「長十郎と云う梨の並木」「温室」「硝子の部屋」「アカシアの華やかに立つ丘の路」「紅き野薔薇の傘形のあづまや」「菖蒲咲くなり低き畑に」「菖蒲よりけしの畑に通ふみち」など、園芸学校の庭園や農園の様子を歌った言葉が出てくる。また、同校に隣接する浅間(せんげん)神社を歌ったと思われる「浅間の森」という言葉が入った歌も1首ある。しかし学内もずいぶん変わっており、場所が特定できない歌も多い。
 与謝野晶子の歌碑は、平成21年11月1日に千葉大園芸学部で除幕式が行われた。歌碑はフランス式庭園に面するA棟わきの木立の中に建立された。歌碑をデザインしたのは市内在住の木工作家・鄙里沙織さん。石匠あづま家が制作した。
 関係者のあいだで歌碑建立の話がもちあがり、当時、松戸シティガイド会長だった石上瑠美子さんを代表として、20年5月に「与謝野晶子の歌碑を建てる1000人の会」が発足。歌碑建立のために1口1000円で寄付金を集めるほか、和洋女子大名誉教授・川崎キヌ子氏の協力で小冊子を発行、「戸定祭」でのパネル展示(同学部創立100周年記念事業会との共催)、石上さんが主宰する松戸市民劇団による晶子の戯曲「第三者」の上演などを行い、機運を高めた。趣旨に賛同し、寄付をした人は462人。総額125万円余りが集まった。
 同年10月から行われた市民の人気投票により歌碑に刻む歌2首が決定。1位の「丘の上雲母(きらら)の色の江戸川の見ゆるあたりの一むらの罌粟(けし)」と3位で幹事会選定の「うすものの女の友を待ちえたる松戸の丘のひなげしの花」が選ばれた。

戸定が丘歴史公園にも晶子・鉄幹の歌碑

戸定歴史館前の歌碑と「ひなげしの小径」に協力した書家ら

 松戸ゆかりの書家の手によって書かれた与謝野晶子の歌18首と夫・寛の歌1首が、赤御影石に刻まれ、「ひなげしの小径(こみち)」として、戸定が丘歴史公園のフットライトの上に配置されている。
 松戸シティガイド発足10周年を記念して設置されたもので、平成23年1月27日に除幕式が行われた。
 同ガイドのメンバーが同公園をガイドしていると、石造りのフットライトを指さして「これはなんですか」と聞かれることが多かった。同公園のフットライトは夜間照明として設置されたが、結果的に同公園は夜間開園されなかったために、一度も使われたことがない。そこで、このフットライトを有効利用できないか、と当時同ガイド代表だった石上瑠美子さんらが「ひなげしの小径」を発案した。
 与謝野晶子が大正時代に、同公園の隣にある千葉大園芸学部を訪れて詠んだ60首の中から18首を選び、夫である寛の歌1首も加えて、石に刻んだ。刻まれた筆跡は、石飛博光氏、鈴木一敬氏、田中美敦氏ら、松戸にゆかりのある名だたる書家たちのもの。趣旨に賛同し、無償で協力してくれた、という。

 

芭蕉・一茶の句碑

蘇羽鷹神社の芭蕉の句碑

 古くから知られている松尾芭蕉の句碑は本土寺、妙典寺、蘇羽鷹神社にある。残念ながら、芭蕉が松戸を訪れたという記録も、松戸を詠んだ句もない。
本土寺の句碑は、文化元年(1804)10月12日の芭蕉忌に建てられたもの。丸い頭部前面に「御命講や油のやうな酒五升」と句が刻まれ、その下に「翁」と大きく刻まれている。翁とは芭蕉のこと。台座には「東都 今日庵門人 小金原 藤風庵可長 松朧庵深翠 方閑斎一堂 避賢亭幾来 当山三十九世 仙松斎一鄒 文化元子十月建之」と建立者と思われる名前と建立年月が刻まれている。今日庵は芭蕉の親友で俳人の山口素堂の茶道の庵号で、素堂は葛飾派という俳諧流派の祖とされる。5人は今日庵二世の森田元夢の門人だった。仙松斎一鄒は本土寺住職の日浄上人。句は貞享5年(1688)の『泊船集』の中の一句で、御命講(おめいこ)とは日蓮上人の忌日のこと。

妙典寺の芭蕉の句碑

 妙典寺には、この5人のうちの1人、松朧庵深翠が建てた芭蕉の句碑があり、「しばらくは花のうへなる月夜かな」という貞享5年(1688)作の句が刻まれている。建立したのは本土寺の句碑から21年後の文政8年(1825)。
 蘇羽鷹神社には、岡椿舎一友という土地の有力者が建てた芭蕉の句碑がある。「月山坂東 湯殿山西国百番供養塔 羽黒山秩父」と刻まれた石碑の左面に「松杉をほめてや風のかほる音 はせお」と刻まれている。「はせお」とは芭蕉のこと。撰集『笈日記(おいにっき)』(1695年)に収められた一句で、建立は天保11年(1840)4月で、妙典寺の句碑よりさらに15年後のことである。
 このように小金周辺に芭蕉の句碑があることからも、江戸時代のこの地域に俳句の愛好者が多かったことがうかがえる。

金谷寺の芭蕉の句碑

 小林一茶の支援者である大川立砂(りゅうさ)もその一人。
 馬橋で油屋を営んでいた大川立砂は通称を平右衛門、また栢日庵とも号し、葛飾派の俳人だった。芭蕉、蕪村と並ぶ江戸時代の俳人・小林一茶は、立砂を爺(じじ)と呼んで親しみ、馬橋の立砂の許を足しげく訪れていたという。
 当時の一茶の経済状態は厳しく、立砂や流山の秋元双樹(味醂醸造)や布川の馬泉(ばせん)、守谷の西林寺住職鶴老などの同門俳人のところを訪れ、句会などを指導して、その謝礼で暮らしを立てていた。

本土寺の芭蕉の句碑

 安永6年(1777)、15歳の一茶は、故郷の信濃を出て江戸で生活を始めるが、「一茶」として頭角を現すまでの10年間は記録がない。そこで、地元では一茶は立砂のところで奉公していたという馬橋居住説が根強いが、確証がない。
 立砂が没し、一茶が信濃柏原に定住した後も、立砂の息子・斗囿(とゆう)との親交は続いたという。
 昭和57年(1982)に五香六実地区の俳句の会「松東俳壇」の同人と協賛者が常盤平の子和清水の公園に建てた「母馬が番して呑ます清水かな」と刻まれた句碑が、ながらく松戸市内で唯一の一茶の句碑だった。碑文の書は、同会の指導者であった日本画家の故・山口豊専氏。
平成22年10月に八ヶ崎の金谷寺境内に芭蕉の句碑が、24年11月に松戸市消防団第23分団・日暮消防センター隣地(八柱駅近く)に一茶の句碑が、新たに建立された。それぞれ、芭蕉、一茶の命日に建立されている。

子和清水の一茶の句碑(左奥)

 建立したのは「かつしか翁会」という、全国の句碑を訪ね歩いている趣味の会。メンバーは、金谷寺住職の渡辺玄宗さん、佐野恒夫さん(柏市つくしが丘)、肥田野則之さん(柏市西原)の3人。
 金谷寺の芭蕉の句碑には、「者世越翁(はせをおきな) 父母の志(し)きり尓(に) 古(こ)ひし雉子能聲(きじのこえ)」と刻まれている。
 この句の出典は、芭蕉の俳諧紀行文『笈(おい)の小文(こぶみ)』。芭蕉は、貞享5年(1688)、伊賀上野で父の三十三回忌を終えた後、父母の供養に高野山に登ったと伝えられており、この折に詠んだものとされている。
 渡辺住職によると、この句碑は同寺の墓地造成に併せて建立されており、父母のことを詠んだこの句を選んだという。刻字は、池大雅(いけのたいが=京都で活躍した文人画家、書家)の模写。

日暮消防センター隣地の一茶の句碑

 日暮消防センター隣地の一茶の句碑には「一茶 おんひらひら 蝶も金比羅参哉」と刻まれている。
 この句は、一茶が寛政6年(1794)4月12日、32歳の時に琴平金毘羅宮を参拝して詠んだ句。
 日暮には徳蔵院と白髭神社のほかに、水神社、琴平社、子神社、菅原社などがあり、信仰をあつめていた。古い地図によると、句碑の建つ場所は日暮字ウツボタとあり、水神社と琴平社が祀られていた。現在の消防センターの場所が水神社、句碑のある場所が琴平社跡地だと思われる。
琴平社跡地を史跡として守り伝えるためと、東日本大震災で亡くなられた方の霊に哀悼の意を表して建てられたという。
香川県琴平町の金毘羅宮表参道の宝物館の近くにこの句を刻んだ句碑があるが、一茶が奉納した筆跡により建立されている。日暮の句碑の刻字は、この字を模写しているという。
 ※参考文献=『まつど文学散歩』(総集編・第7集)(宮田正宏・編)、「松戸の歴史案内」(松下邦夫)

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