わたしのページ(読者投稿)2020年11月22日

茂木美佐子さんの作品

穏やかで寂しくない世界へ
 コロナ禍が一般の人に深刻なことになると理解される少し前の2月初め、独身で一人暮らしをしていた弟が心筋梗塞のため亡くなりました。
 幸いにも近所の方が、「毎日出掛けていたのに車が一週間置いたままで家から物音も聞こえない」とわたしたち兄弟に連絡を下さり、検死は行われましたが肉体は普通に見送ることができました。
 兄弟の多いわたしたちは、上から5番目の彼が一番先に逝ってしまうとは考えたこともなく、お互い日々の生活の中で忙しさと、少し遠くに住んでいるのを言い訳に、会うのは親戚の結婚式や葬式、法事だけでした。
 真面目でやさしかった弟は、中学の時いじめに遭い休み時間がこわくてトイレに隠れたりしましたが、エスカレートしたある時、耐え切れず授業に戻らず逃げ出したのでした。学校からいなくなったと連絡を受けるまで、家族もいじめに遭っていることに気付かなかったのですが、夜になって家に戻ってきた弟に事情をやっと聞いた父親は猛烈に怒り、その日のうちに学校で待機して下さっていた先生方に怒鳴り込んで行きました。
 その後は目立ったいじめには遭わず、無事に卒業・進学ができました。
 性格は一生変わらず、定年退職した後も仕事を求めたらしく、家には亡くなる直前に書いた履歴書が残されていました。その履歴書で、数学と物理が得意だと知り、また残された物から孤独を楽しんだのか、川釣り、カメラ、天体観測、スキーなど多方面の趣味があり一人でも楽しめるものばかりでした。
 死後の世界はわかりませんが、穏やかで寂しくない世界だといいなと冥福を祈っています。(根本・みつこ)

いただきますは忘れずに…
 今月23日は「勤労感謝の日」です。
 勤労感謝の日とは「勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝し合う日」とされています。ただ、戦前の11月23日は「新嘗祭(にいなめさい)」と称される祭典を行う祭日でした。
 1945年、日本は戦争に負け、GHQの占領下のもと、国家神道の色が強い新嘗祭という名の祭日は排除され、勤労感謝の日という名の祝日ができました。
 新嘗祭という祭日はなくなりましたが、新嘗祭は毎年11月23日に宮中と全国の神社で今でも行われています。その年に収穫された新米や新酒を神様に捧げ、その収穫を喜び、感謝し、翌年の豊作を祈念する祭典です。
 新嘗祭は、宮中祭祀の中でも重要な位置を占める行事です。宮中においては、この日、天皇陛下が新穀で作られた食事を神々にお供えし、五穀豊穣に感謝し、国と国民の安寧と幸せを祈られます。
 そして、天皇陛下自らも食事を召し上がり、新たな力を得て、 翌年の豊穣も約束するのです。新嘗祭の歴史は古く、古事記や日本書紀にも記述があり、飛鳥時代に始まったとされています。また、万葉集の中にも、新嘗祭にまつわる和歌をいくつか見ることができます。
 宮中行事のため、あまり馴染みがないという方もいると思いますが、新嘗祭は今でも大切な行事として執り行われています。
 美味しいものを食べられることは、本当に幸せなこと。豊かになり、当たり前のように食べることが出来ても、「いただきます」と感謝する心は忘れず、生きていきたいです。(稔台・たぬき)

おすきなふくは秋の七草覚え方
 秋の七草の覚え方の一つに「おすきなふくは」がありますね。ご存知でしょうか?。
・お(オミナエシ・女郎花)
・す(ススキ・薄)
・き(キキョウ・桔梗)
・な(ナデシコ・撫子)
・ふ(フジバカマ・藤袴)
・く(クズ・葛)
・は(ハギ・萩)
 春の七草は七草粥にして無病息災を祈りますが、秋の七草はその美しさを鑑賞して楽しみ、そのうえ薬用など実用的な草花としても親しまれてきました。
その中でも「クズ」は、根の乾燥したものが生薬「葛根(かっこん)」で、漢方薬として風邪のひきはじめに飲まれています。その他の花も薬草として役立っていますね。
 過日某集まりで、青紫色をした「キキョウ」の花が飾ってありましたが、花の名前を知っていたのは高齢者ばかりでした。
 これを機会に是非身近な花として、少しずつ学習してみてはいかがでしょうか。わたしは山野草として四つほど鉢植えで楽しんでいます。また、「秋の七草」は万葉集にも収められていますね。(花は一番 77)

国勢調査員として感じた事
 5年毎に行われる国勢調査。5年前と今回と2回調査員を引き受けました。
 今回は、コロナと言う難しい時期と重なり、調査の仕方も大きく変わった。直接対面せずインターホーン越しの会話。二度訪問してもお留守の場合、メモを添付してポストに投函。その他いろいろ…。
 国勢調査が始まって100年になるというが、どんどん回答率が減っていると聞く。社会が時代の移り変わり、プライバシーの問題、個人主義、そして国勢調査の意味を理解していない人が増えているのではないか、というお話も聞きました。調査員を引き受ける人も減少したとのこと。
 結構、高齢の人が回っておられるのを見かけました。今回は、調査員用のエコバックが売りに出されたり、腕章を二人の方が無くされたと、ニュースで知りました。
 調査の仕方を検討する時期に来ているのではないでしょうか。二度、調査員を引き受けて感じたことです。(松戸住民)

大ヒットしているアニメ映画を観て
 アニメ映画鑑賞は、高校時代に観た松本零士氏の作品と30代の時に子どもを連れて観に行ったネコ型ロボットの作品、先日はママ友と日本中で大ヒットしているアニメを観に行った。
 個性あふれる主人公と支える立場のキャラクターたちが放つ言葉には胸打たれる場面もあったのだが、とにかく殺し殺されでグロテスクな映像が多く、世間の子どもたちはこれを平気で観ているのだと思うと恐ろしくも感じた。
 考えてみれば自分が10代の頃より、テレビドラマや映画作品も殺伐とした内容のものが多くなったように思う。
 「命を大切にしましょう」という言葉がよく聞かれるが、世の中には全く逆の表現があふれていると思う。
 映画館は感染対策が適正にされており、快適だったけれど、作品自体には首を傾げながら映画館を後にした50代女性二人だった。(二ツ木・石井裕子)

東日本大震災、10年を前に思う
 来年3月11日で10年を迎える東日本大震災・東京電力福島第一原発事故のことである。
 読売新聞10月19日号の「あれから」で、原子力規制委員会の初代委員長の田中俊一さんが除染活動の縁で、2017年から原発事故後全村避難となった福島県飯舘村の山荘に引っ越して住んでいるという記事だった。
 わたしは飯舘村西隣の川俣町で生まれ育った。以前の飯館を「日本一美しい村」と信じていた。学んだ中学校にこの村から自転車通学してきた同学年生と友人だった。ですから原発事故現場から40キロも離れているのに、偏西風に煽られて放射能を浴びたことに憤った。しかも、豊かな田畑に除染土がフレコンバッグ230万個も並べられたという。
 終戦後、わたしは母と一緒に飯館の親戚を訪ね「買い出し」をして、風呂敷を背負って幾度となく通った。野菜は豊富で、多くの山菜やキノコ、タラの芽などを産し、山も野もきれいな里だった。震災前約6800人の人口がいま1480人という。
 10年目を前に復興の姿を見たい気持ちでいっぱいだ。(高塚新田・松毬)

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