二十世紀梨を生んだ
松戸の梨づくり

たわわに実った観光梨園の梨(幸水、一般社団法人松戸市観光協会提供)

 梨の生産量で全国1位を誇る千葉県。なかでも松戸市は現在の人気品種、幸水、豊水につながる二十世紀梨を生んだ地として知られている。令和2年8月現在で松戸市観光梨園組合連合会の会員数は48園。二十世紀梨が発見されて132年。観光梨園が始まって50年を過ぎた現在、改めて松戸の梨づくりについて紹介する。【戸田 照朗】

江戸時代には盛んだった梨栽培

 江戸時代後期の文政3年(1820)3月に江戸小石川本法寺の十方庵津田大浄が柏市の布施弁財天に参詣する際に書いた紀行文「遊歴雑記」には「松任の駅」(松戸宿)から「小金の駅」(小金宿)の間の水戸街道の両側に梨の木がたくさん植えられていて、梨棚をつくり、花がよく咲いていた様子が書かれている。
 現在の松戸市における梨(日本なし)の産地は金ヶ作、五香、六実、串崎、高塚など水戸街道からは離れた下総台地上にあるが、江戸時代には街道沿いでも盛んに梨が栽培されていたようだ。
 梨の栽培の歴史は古く、日本書紀の持統天皇(693年)の章に、梨栽培奨励の記事があるので、梨の栽培がわが国で始まったのは、少なくともそれより前ではないかといわれている。
 千葉県での梨栽培は松戸市の隣、市川市八幡で始まった。川上善六(1742~1829)は殖産興業に熱心で、八幡地方の土質(砂地)に合う作物を求めて諸国を漫遊。美濃国大垣で梨栽培を見て関心を持ち、枝梢をもらいうけて持ち帰り、今の八幡神社のあたりにその接木苗を植えたという。3年後に数個の成果を得て、数年後には「美濃なし」として神田の青果物問屋に出荷された。梨は江戸で好評を得て、高価で取引されたので、梨栽培は徐々に周辺の農家に広がっていった。江戸末期には、八幡、市川、大柏、八柱、中山、鎌ヶ谷、葛飾など、南部葛飾郡一帯の旧町村が主要産地となっていった。
 千葉県は、収穫量全国1位(2位茨城、3位栃木、4位福島、5位鳥取。平成30年農林水産統計速報)。千葉県では、白井市、市川市、鎌ヶ谷市、船橋市、市原市、松戸市、八千代市、柏市、一宮町、いすみ市の順に結果樹面積が多い(平成18年度)。

二十世紀梨のふるさと

松戸覚之助
(松戸市立博物館提供)

 松戸市は県内では6番目の産地だが、特筆すべき点がある。それは二十世紀梨が発見された地であるという点だ。二十世紀は現在販売されている多くの梨の祖先になった品種で、幸水や豊水(千葉県では両品種で結果樹面積の約8割を占める)などもその子孫である。
 松戸市大橋(当時は八柱村)に生まれた松戸覚之助は、明治21年(1888)、13歳の時に分家の石井佐平の家の裏庭のゴミ捨て場の中に梨の若木を見つけ、これをもらいうけて父伊左衛門が経営する梨園に移植して育てた。消毒や肥料、袋かけなどに気をつけて育てること10年。結実した実は芯が小さく、肉が白く上品な甘み、したたるような水分がある素晴らしい梨だった。
 覚之助は早速、東京大学や専門家、大隈重信伯爵などに梨を送って賛辞を受けたという。最初は青梨新太白という名前を考えていたが、同業者の東京興農園の渡瀬寅次郎に相談したところ、明治37年(1904)、渡瀬は東京帝国大学助教授の池田伴親に相談し、二十世紀という名前が命名された。20世紀にこれに優るものは現れないだろうという意味だという。明治時代より、二十世紀(青梨)と神奈川県川崎市の当麻長十郎が育てた長十郎(赤梨)が二大ブランドとなってゆく。

錦果園ラベル(松戸市立博物館提供)

 覚之助は梨やぶどうの栽培を広めるため、苗木の販売をはじめた。覚之助が経営する錦果園には全国から二十世紀梨の苗木の注文が殺到したという。覚之助は研究熱心な人であったらしく、明治35年(1902)に「葡萄(ぶどう)種類説明」を発行。その後、「葡萄と梨種類解説」「果樹解説」と名を変えて昭和18年(1943)まで発行した。これらの冊子は、模範的果樹園を経営し、厳密な品種試験を行った苗や、欧米の品種を輸入して通信販売するためのカタログで、全国の得意先に毎年郵送し注文を受けた。
 多くの苗木を生み出し、大正7年(1918)には1500個の実をつけた二十世紀梨の原樹も昭和9年(1934)ごろには少し弱っていた。覚之助は千葉高等園芸学校(現千葉大園芸学部)の三木泰治教授と相談して、国の天然記念物として永く保存しようとした。栽培面積が多く、梨の中で最も品質が良く、多くの優れた品種の親となったことが認められ、昭和10年に原樹が天然記念物に指定された。原樹はその後、昭和19年11月22日夜の本土初空襲で被害を受け、ついに昭和22年に枯れた。現在は二十世紀公園の中に記念碑があるほか、松戸市立博物館に二十世紀梨の梨棚と原樹が展示されている。
 一方で、二十世紀は病気(黒斑病)にかかりやすく、袋かけなどの手間がかかるとい

葡萄と梨種類解説(松戸市立博物館提供)

う欠点を持っていた。このことから、栽培を断念する産地も多く、ふるさとの松戸でもあまり作られなくなっていった。しかし鳥取県は例外で、同県では産学官が一体となって病気対策に取り組み、一大産地となっていった。2001年までは長らく梨の生産量全国第1位を誇っていた。同県の梨のうち、二十世紀は約80%を占めている。同県では、二十世紀という品種が大変大切にされており、県立鳥取二十世紀梨記念館という国内で唯一の梨の博物館が2001年に開館した。後述するように松戸市との交流もある。
 また、二十世紀は優れた品種の親となっていった。黒斑病に強く、二十世紀のような高品質の梨として育成されたのが菊池秋雄博士による菊水や八雲などの青梨で、二十世紀を片親としている。後に農林省園芸試験場で育成された幸水、新水、豊水の「三水」は菊水を片親としており、二十世紀の遺伝子を継いでいる。幸水、新水、豊水は二十世紀とは違う赤梨である。二十世紀などの青梨は果皮が汚れやすく、袋かけをしなくてはならなかった。一方で、赤梨は袋かけしなくても傷がつきにくいという特性をもっていた。そこで、二十世紀のようにおいしくて、黒斑病にも強く、さらに袋かけが必要ない赤梨がほしいという生産者の要望に応えて、これら「三水」が生まれたという。

直売に特化した梨園

果樹解説(松戸市立博物館提供)

 松戸市観光梨園組合連合会(髙橋治会長)には現在48の梨園が加盟している。昭和38年、当時松戸市商工観光課長だった福原勉氏の勧めもあり、既に観光梨園をやっている自治体を視察し、8月に数園でスタート。翌年8月には観光梨園が本格的に始まった。同連合会の事務局は一般社団法人松戸市観光協会(☎047・703・1100)が務めている。
 二十世紀梨を生んだ松戸市だが、梨の生産量では県内6位で、それほど多いわけではない。そこで、東京近郊という立地を最大限に生かした「観光梨園」という形態が考え出されたという。
 開園当初は折からのマイカーブームに乗って多くの客が来園し、当時の主力品種だった長十郎の梨もぎが盛んに行われたという。
 70年代後半から80年代にかけては、宅配便の登場で配達のスピード化と正確性が進み、荷傷みしやすい梨の宅配も容易になった。宅配便利用による梨の販売は徐々に増えてゆき、今では梨のもぎとり販売とともに、梨園経営の二本柱になっている。
 梨の食べごろは8月中旬から10月上旬まで。8月には人気の幸水、豊水が食べごろとなり、お中元の贈答用として送る人も多い。しかし、お中元の習慣は若い世代から徐々に薄れつつある。若い世代にどう認知してもらうかがこれからの課題。すぐに食べておいしい、熟度の進んだ梨を選んで販売できることが、直売の良さであり、また強みだという。

松戸市立博物館に展示されている二十世紀梨の梨棚

鳥取県との交流

 松戸市から二十世紀梨の苗木が鳥取県に渡って100周年を迎えた平成16年には様々な交流イベントが行われた。これに先立って平成14年11月29日には松戸市立大橋小学校に鳥取県知事、松戸市長、倉吉市の関係者らで二十世紀梨の樹4本が記念植樹された。
 二十世紀公園にある「天然記念物二十世紀梨原樹」の碑の右側面には「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ昭和十年十二月文部大臣指定」、左側面には「昭和十七年十一月建設」と刻まれている。
 この碑の周囲にはいくつかのオブジェや記念碑が置かれている。松戸市教育委員会が建てた「二十世紀梨誕生の地」の碑は昭和40年、千葉県「房総の魅力500選」の「二十世紀梨誕生の地記念碑」は昭和63年の選定。真ん中

のオブジェのある石碑は「二十世紀梨感謝の碑」で平成14年に鳥取県から贈られた。右端は、この地区の区画整理事業の記念碑で梨の木をかたちどったものだという。
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 ※参考文献=「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「特別展『はばたけ二十世紀梨』│松戸覚之助君の大発見物語 │図録」(松戸市文化ホール)、「千葉県の日本なし」(関東農政局千葉統計情報事務所)

二十世紀公園にある「天然記念物二十世紀梨原樹」の碑

二十世紀公園に並ぶ記念碑。左から千葉県「房総の魅力500選」の二十世紀梨誕生の地記念碑、松戸市教育委員会が建てた「二十世紀梨誕生の地」の碑、鳥取県から贈られた二十世紀梨感謝の碑、「天然記念物二十世紀梨原樹」の碑、梨の木をかたちどった区画整理事業の記念碑

松戸市立博物館に展示されている二十世紀梨の原樹

昭和43年ごろの観光梨園(松戸市提供)

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