松戸の黄門伝説

 重要文化財・戸定邸は明治時代になってから最後の水戸藩主・徳川昭武が建て、移り住んだものだが、水戸徳川家と松戸とのかかわりは、江戸時代初期にまでさかのぼる。寛永年間か正保年間ごろ、幕府から小金領二百か村を与えられた水戸徳川家は、これを鷹場とし、西新田(現在の小金原二、三丁目)にお鷹場役所を設けた。このお鷹場役所には「黄門さま」こと徳川光圀も度々訪れ、鷹狩りを行ったという。そのためか、市内にはいくつかの黄門伝説が残されている。水戸と江戸を結ぶ主要道路・水戸街道が松戸市内を通っていることも、大いに関係したと思われる。光圀は寛文元年(1661)、31歳の時に水戸藩主となり、元禄3年(1690)10月14日に職を辞し、翌日に権中納言(黄門)に任じられた。【戸田 照朗】

松戸神社 黄門さまと白鳥

松戸神社と大イチョウ

 黄門さまこと水戸光圀が鷹狩りに出かけた時のこと、御岳大権現(おんたけだいごんげん=現在の松戸神社)の前まで来ると、境内の大きなイチョウの樹に白鳥が一羽、羽を休めていた。光圀は白鳥をつかまえようと鷹をいかけるが、鷹は恐がってうずくまってしまう。いらだった光圀は、自分で弓矢を取って射落とそうとした。それを年配の従者が「境内にいる鳥を射れば必ず罰があります」といさめたが、光圀は怒って弓を引き絞って矢を放とうとした。するとたちまち手がしびれ、思うように動かない。そこで神殿の扉を射ようとすると、弓が真ん中から折れてしまった。光圀は愕然(がくぜん)として、折れた弓矢を奉納し、陳謝して帰ったという。
 この時奉納された弓矢は、元文元年(1738)の火災で焼失してしまった。現在の拝殿の左端に弓矢が奉納されているが、この弓矢は伝説にちなんでか、後に奉納されたものだという。
 光圀はおそらく旧水戸街道(現在の県道)から本殿と拝殿を見たのだろう。当時の本殿は、後に造営された拝殿の裏に隠れている。
 同神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀っている。尊が天皇の命令で東国に遠征した際、武蔵の国の平定に向かう途中、吉備武彦(きびたけひこ)の連(むらじ)、大伴武日(おおともたけひ)の連と待ち合わせをした場所が、現在、同神社がある場所だという。この縁から後世に村人が祠(ほこら)を建てて祀るようになり、寛永3年(1626)に社殿が創建された。
 「古事記」や「日本書紀」によると、尊は東国遠征の帰途、尾張国の伊吹山に登り、山の神々を軽視したためにひどい目に遭ってしまう。その後、尊が亡くなると、白鳥となって倭(やまと)の方角へ飛んで行った、という。尊の墓は3つあり、これらはいずれもこの白鳥が飛び立ち、舞い降りた場所。墓は人々から白鳥御陵(しらとりごりょう)と呼ばれたという。

松戸神社に奉納された弓矢

 つまり白鳥は日本武尊の化身と言うべきもので、黄門さまもずいぶん無謀なことをしたものだと思うが、『松戸のむかし話』(単独舎)の著者、岡崎柾男さんは、同書の解説で、「黄門が将軍綱吉の出した悪法『生類憐(しょうるいあわれ)みの令』を無視し、公然と鷹狩りを行ったり、鶴を殺した農民をかばったことは知られている。この民話はそういう史実を背景にして生まれたものだ。さもなければ人一倍神仏をうやまう心の強い人物が、弓矢をとるなど考えられない。しかし、伝わっている話には、こういった黄門の基本的なものの考え方が欠落してしまっているのが残念」と書いている。
 白鳥(しらとり)は、やはりハクチョウと考えるのが一般的なようだが、松戸神社の大イチョウには時折シラサギが止まり、羽を休めている姿が見られる。

雷電神社 黄門さまと雷

落雷を受けた雷電神社の杉の木の御神木

 旧水戸街道が通る竹ヶ花。同地には、雷よけのご利益があることで知られる雷電神社がある。近隣の他市からも農家が「下がりもの」と呼ばれるナシ、ナス、キュウリなどを持って訪れたり、東京電力松戸営業所も祈願を行っていたという。
 同神社には、雷にまつわる黄門さまの伝説が伝わっている。平成10年に奥友彦記者(当時)が地元の染谷清治さん(当時65歳)に聞いた話では「光圀が江戸から水戸に向かう途中、お宮(雷電神社)の前を通ると大神様(雷)が鳴って、どうしようもなかった。それで、お宮のご神体の分身を水戸に持っていって祀りこんだら、その後は雷が鳴らなくなった」という。
 『松戸のむかし話』(岡崎柾男)にはこんな話が出ている。
 あるとき、馬に乗って出かけようとしていた黄門さまが、お供の者に「雲一つない、いい天気だ」といった。高く澄み切った気持ちのいい秋の空だったが、いたずら好きの雷が遠くの黒雲の上で話を聞きつけた。雷は、「それなら困らせてやろう」と黄門さま一行の真上でゴロゴロやりながら雨を降らせ、黄門さまたちの頭の上をしつこくつける。しかし、調子に乗って低く飛びすぎ、竹ヶ花で松の大木にぶつかり、雷は地べたに落ちてしまう。すかさず黄門さま

竹ヶ花の雷電神社

のお供の侍たちがつかまえ、怒った黄門さまは雷を十年間、がんじょうな鉄のお堂に閉じ込めてしまった。十年後、許されてお堂から出された雷は、嬉しさのあまり、七日七夜も太鼓をたたいて、雲の上で踊り続けたという。

 同神社では神様が嫌っているので、境内に松の木は植えていないという。伝説と関係があるのだろうか。
 同神社の入り口には昭和17年(1942)に落雷を受けた杉の木の一部が残っている。この杉の木は間もなくご神木とされた。

風早神社 なんじゃもんじゃの木

上本郷の風早神社

 ある日、黄門さまが風早神社の前を通りかかると、根っこのところがモグラが持ち上げた土みたいに風変りに盛り上がったなんとも珍しい形の大木があった。
 黄門さまは、「こりゃ、なんじゃ」と近くにいた村人に木の名前を聞いたが、分からない様子。すると、黄門さまが「……はて、もんじゃ」となんとなくつぶやいた。それから、その木には「なんじゃもんじゃの木」と名前がついたという。
 「なんじゃもんじゃ」という呪文のような文句は本来は樹木の霊との問答を意味するという。
 「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれる木はいたるところにあり、風早神社は樫の木だが、明治神宮外苑のものはモクセン科ヒトツ葉タゴ、千葉県香取郡の神崎神社のものはクスノキ。神崎神社にも風早神社と同じような黄門さまの伝説があるという。

七面神社 黄門さまの大蛇退治

小金原の七面神社

 水戸徳川家のお鷹場役所があった西新田(小金原二、三丁目)の七面神社にも黄門さまの伝説がある。
 黄門さまは魚釣りが好きで、暇があればお供を連れて、いけす(池、沼)へ出かけていたという。あるとき、根木内の三反くらい(約30アール)の古いいけすに、釣り糸を垂らしていた。しかし、半時(1時間)たってもピクリともこない。そこに、どこからかヤマカガシ(水辺に生息する小さい毒蛇)が寄ってきて、指をピロピロとなめた。お供の侍が「天下の黄門さまに対し、ふとどきな」とヤマカガシの首を切り落とし、いけすに投げ込んでしまった。その途端、みるみるうちに、いけすの底から沸き立った泥が天まで吹き上がる。ヤマカガシはいけすの主の子で、「おのれ黄門、よくもせがれの命を奪ったな。このままでは済まぬぞ」と、いけすの主の声が聞こえた。

七面神社の御神体。中に本土寺の日栄上人の書が入っている

 その夜、黄門さま一行は、いけすの主の復讐を警戒して、ろうそくを煌々(こうこう)とともしていた。
 丑三つ時(午前3時ごろ)に泊まっていた宿がギシギシと揺れだし、目覚めた黄門さまが天井を見ると、いけすの主の大蛇が火を吹きながら迫ってきた。なんと大蛇は七つのおもて(顔)を持ち、七つの口から火を吹くので侍たちも苦戦。そこで、黄門さまの機転で生の木に火をつけ、いぶりたてると大蛇はふらふらになったので、大きい瓶(かめ)に閉じ込めてしまった。
 「子どもを切られたいけすの主はかわいそう」と思ったのか、黄門さまはそのいけすの真ん中にお宮を建て、瓶を祀ることにした。七つのおもての主ということから、そこは七面様と呼ばれるようになった。
 このような伝説を持つ七面神社には、黄門さまゆかりの品が伝わっている。神社の入り口には石碑があり、碑文によれば、この社のご神体は光圀の自作で、もともとは平賀本土寺に祀られていたものだという。台座部分に蛇が巻きつき、「七面大明神」の文字がある。境内の弁天様の末社に祀られる像も光圀と関係深いといわれる。

茂侶神社 格式ある「式内社」

小金原の茂侶神社

 小金原五丁目、松戸北郵便局近くにある茂侶(もろ)神社は、式内社(しきないしゃ)であろうと言われている。
 式内社とは、平安時代に出された延喜式神名帳(朝廷が尊敬する神社を記した帳面)に記録されている神社のこと。同じ式内社に佐原市にある香取神宮がある。こうした神社は当時、格式高い神社とされていた。
 茂侶神社の境内にある大正2年(1913)の碑によると、同社が式内社であることを確認したのは黄門さまだという。
 碑文によると、茂侶神社に椎の木の大木があり、寛文4年(1664)4月、光圀は鷹狩りの途中に訪れ、椎の木の下に神主を招いた。光圀は、この社が式内社であること、椎の木を神木として大切にすべきことなどを説いたという。この神社を式内社とする由来は受け継がれ、茂侶神社は現在も「由緒ある神社」として知られている。
 しかし、式内社「茂侶神社」は、実は流山市の茂侶神社(旧三輪神社)であるという説がある。江戸時代後期に出版された一部の刊行物では、むしろ流山の茂侶神社が式内社として紹介されている。
 日暮玄蕃(水戸家御殿守役)にあてた森尚謙(光圀の家臣)の手紙に、小金原の茂侶神社を式内社と認めている一文があり、これが「小金原説」の主な根拠となっている。

平賀本土寺 「日上の松」と黄門さま

本土寺境内にある秋山虎康の娘、お都摩(つま)の墓

 平賀本土寺の境内にある秋山虎康の娘、お都摩(つま)の墓も徳川家、そして黄門さまにゆかりがある。
 秋山虎康は武田信玄の家臣だったが、信玄の死後あとを継いだ子の勝頼に失望し、一族の穴山信君に従って徳川家康に降(くだ)った。秋山虎康の娘、お都摩は穴山信君の養女となった後、家康の側室となり、家康五男の信吉を生んだ。
 織田信長に攻められた武田家は勝頼の自刃(じじん)により滅んだ。家康は甲斐源氏の名門武田家が滅んでしまったことを惜しんで、武田の血を引く自身の子信吉に武田姓を名乗らせ、小金に領地を与えた。信吉は当時7歳。佐倉4万石に移封の後、水戸15万石に移封になった時には19歳になっていた。しかし、翌年の慶長8年(1603)9月、若くして病死した。信吉には子がいなかったため、家康の目指した武田家再興の夢はついえた。
 水戸にはこの後、家康十一男の頼房が入り、御三家のひとつ、水戸徳川家の祖となった。頼房の三男が黄門さまこと、水戸光圀である。
 信吉の母、お都摩も病弱だったらしく、天正19年(1591)24歳の若さで亡くなり、本土寺参道北寄り西側の馬場脇に葬られた。
 貞享6年(1684)鷹狩りで松戸を度々訪れていた黄門さまは、叔父信吉生母の墓「日上(にちじょう)の松」(日上はお都摩の法名)を発見した。お都摩の死後93年が経過し、その頃は墓石もなく、わずかに目印として植えられた松の木が老木となって生えているだけだった。
 黄門さまは人夫20人を使って遺骨を探させたが、ついに見つからなかった。そこで、立派な墓石を本堂東側に建立し、墓土を新桶に入れて新墓地内に納め、手厚く供養した。
 黄門さまは本土寺に位牌を安置し、二十石の田地を寄進して末永く冥福を祈らせた。

上本郷 ゆるぎの松

上本郷の「揺の松遺跡」の碑

 上本郷の七不思議のひとつ、「ゆるぎの松」の話にも黄門さまが登場する。
 むかし、黄門さまが上本郷を通りかかったとき、枝ぶりの良い松の大木が目にとまった。
 黄門さまが近づいて松の幹をなでると、まるで生きているかのように、松がゆらーり、ゆらーりと揺れ動いた。そんなことは今まで一度もなかったので、見ていた者はみんなびっくりした。
 黄門さまが、「ほほう、これは、ゆるぎの松じゃのう」と言ったので、以来、その松は「ゆるぎの松」と呼ばれるようになった。
 この松は本福寺の北にあった老松で、大正時代の終わりごろに枯れてしまったという。

 ※史実の部分は主に『松戸の歴史案内』(松下邦夫)、民話は『松戸のむかし話』(岡崎柾男)を参考にした。
 『松戸のむかし話』は1985年8月30日に単独舎から発行されたもので、脚本家、演出家の岡崎柾男さんが地元のご老人に話を聞き、絵本(井出文蔵・絵)という形でまとめられている。
 同書は、なるべく土地の言葉(方言)を生かす形で書かれているが、本文では分かりやすく話の筋だけをまとめた。

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