すべて忘れることはできません(読者投稿)

「焦土からの出発(たびだち)」根本圭助・画

 この度、「語りつぐ戦争」戦争特集を読売本紙投稿欄で拝読しました。
 わたしも空襲を体験しました。15歳のときです。
 昭和20年4月、東京のはずれにも米軍の爆撃がありました。昼夜を問わず警報が鳴り響き、その日は夜でした。我が家一帯が目標になり、焼夷弾の火の粉がバラバラと頭上に落ちてきて、父と住み込みの人は家の消火にあたって残り、姉とわたしはリヤカーに荷物を積めるだけ積んで近くの河川敷へ逃げました。土手の下には大勢の人が来ていて、空を見上げながら夜明けを待ちました。かなり遠くから避難して来た人もいました。
 その時、近くで女の人の声が聞こえてきました。「明日息子が出征するんだけれど、お赤飯を炊いてやりたい。困った困った」と誰かに言っているのです。わたしは驚くばかり。その切実さが伝わってきました。この極限状態の中で軍国の母がいました。すべてはお国のためと叩き込まれた教育を受けた人なのでしょう。わたしは逃げまどって戦争の怖さを身をもって知ったのです。
 爆撃で「ザー」という爆弾の落ちる音、爆撃機の爆音に身を凍らせて、庭に掘った粗末な防空壕で聞きました。母と妹は、わたしたちが空襲で逃げた日の少し前に近在へ疎開しました。幼い妹が防空壕で泣き叫んだからです。
 父は悩んだ末に疎遠だった従兄弟を頼りました。妹が恐怖心で泣き喚いて母を呼んだ声が耳に残っています。すべて忘れることは出来ません。
(小金原・小倉芳子)

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