江戸時代の大イベント
小金原の将軍御鹿狩

 松戸にはかつて小金原という広大な野生馬の放牧地があり、江戸時代には将軍御鹿狩(おししがり)が行われ、鹿をはじめ猪などが狩の対象となった。干支にちなんで、小金原の将軍御鹿狩について紹介する。【戸田 照朗】

温故東能花 将軍家於小金原御猪狩之図 楊洲周延・画 船橋市西図書館所蔵

 松戸市には小金や小金原といった地名があるが、それは平安時代から江戸時代の終わりまで続いた野生馬の放牧地にちなんだもの。現在の小金原は、旧小金宿の東側にある地域で、昭和46年に栗ヶ沢や根木内などが宅地造成された後に新しく生まれた地名だ。
 放牧地の小金原は、小金牧、小金野、四十里野とも呼ばれた。北は野田市中里から南は千葉市花見川区柏井町まで、直線距離で43キロ、最大幅6キロほど。牧に沿って周囲を測ると四十里(120キロ)ほどになった。小金牧とともに佐倉牧があり、合わせて下総牧と呼んだ。
 ただ、ずっと牧場が続いているわけではなく、小金原は荘内牧(上野・下野)、高田台牧、上野(かみの)牧、中野牧、下野(しもの)牧、印西牧の6牧場からなっていた。松戸市にかかっているのが、中野牧で、牧と牧の間に村々が点在していた。

オウル五香駐車場沿いにある野馬除土手の木戸遺構

 徳川家康は天正18年(1590)に江戸城に入り、関東の経営を本格的に始めた。
 東海随一の馬術者と言われた家康は、軍馬の重要性に着目しており、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、下総牧を直轄地として、「馬守り衆」と呼ばれていた人たちに帯刀を許して士分とした(後に、牧士と呼ばれる役人となった)。天下分け目の「関ヶ原の戦い」は慶長5年(1600)のことで、小金原産の軍馬が徳川方として活躍したものと思われる。
 千葉氏、小金城主高城氏とその家臣たちは、豊臣秀吉の関東攻めでは小田原の北条氏に味方したため、落城、離散の憂き目を見ていた。
 しかし、2代将軍の秀忠は最後の小金城主となった高城胤則の遺児・胤次を700石の旗本として取り立てた。

 また、家康が下総牧の管理者として白羽の矢を立てたのが千葉氏の一族だった綿貫十右衛門政家だった。
 小金原は、ほぼ全体が水戸家の鷹場村に指定されていたために二重に規制がかかっていた。鷹狩りとはオオタカやハヤブサなどを使って水鳥などを狩らせる狩猟。家康も鷹狩りが好きだった。
 そのため、小鳥をはじめ、鳥の餌となる魚も捕ることは固く禁じられていた。また、火気厳禁など様々な規制があった。

五香公園の中にある「御立場跡」の碑

 「しぐるるや たばこ法度の 小金原」という小林一茶の句がある。一茶は馬橋や流山など、東葛地域に支援者が多くいたため、小金原を度々歩いていた。寒い日に煙草に火をつけようとした一茶だったが、ここが火気厳禁の小金原であることを思い出したのである。

 中野牧では、将軍の御鹿狩(おししがり)が計4回行われた。この御鹿狩は、松戸の歴史の中でも最大級のイベントだった。
 八代将軍・吉宗は享保10年(1725)とその翌年に御鹿狩を行った。

千代田之御表 小金原牧狩立場之図 楊洲周延・画 都立中央図書館特別文庫室所蔵

 小金牧には、野馬とともに鹿や猪、野犬が生息しており、鹿や猪が田畑を荒らすので、村人は非常に困窮していた。小金牧支配代官の要請や村人たちの期待に押されて、その規模は大きくなり、下総四郡、武蔵葛飾郡の480村から百姓勢子人足(狩猟の時に野獣を追い出したり包囲して一方に誘導する人足)1万5千人を動員した。
 享保10年3月27日午前1時過ぎに江戸城を出立した吉宗一行は、江戸川に船を並べて作った臨時の橋(船橋)を渡って、松戸町に午前6時に到着。千葉大園芸学部旧正門脇で朝食をとった。
 そして、五香に建てられた御立場(おたつば)に将軍が到着したのは午前8時。御立場は塚を高く築き上げたもので、高さ5・5m、頂きには二間四方の御殿が建っていた。将軍はここで狩場を見渡し、指揮をとった。
 現地には、前夜から泊まりがけで来ていた騎馬5百、歩行2千人の旗本武士が待機していた。
 吉宗も最初から騎馬で参加し、自ら鹿猪を仕留めたが、犠牲動物のあまりの多さに哀れを感じたのか、終わりには網を切って数千頭を逃がしたという。
 鹿826頭、猪5頭、狼1頭を百姓にかつがせて午後4時には帰城した。
 御鹿狩は、寛政7年(1795)、十一代・家斉の時と、嘉永2年(1849)、十二代・家慶の時にも行われている。
 特に家慶の御鹿狩は、旗本6千家以上1万3千5百人、百姓勢子6万3千人を動員という大規模なものだったが、その目的は吉宗の時代とはずいぶん違うものだったようだ。
 当時、小金牧には鹿や猪がほとんどおらず、狩りのためにわざわざ近隣から購入した猪などを飼育し、放したという。当時は異国船が頻繁に日本近海に出没していた頃で、御鹿狩を名目にした軍事訓練だった可能性もあるという。

古ヶ﨑村の御鹿狩人足幟(複製・松戸市立博物館蔵)

 古ヶ崎の待山順俊(のぶとし)さん(66)の家には、御鹿狩の時に使った人足幟(のぼり)とほら貝が残されている。幟には、「下總國葛飾郡 人足三拾九人 古ヶ﨑村」と染め抜かれ、村人の集合の合図として、ほら貝を吹いたのではないか、という。複製された幟が市立博物館常設展示室に展示されている。
 鎌倉時代、千葉氏は九州北部にも領地を持ち、下総(千葉県)と九州を行き来していた。待山家は千葉氏に従って九州北部から古ヶ崎村に移り住んだ。千葉氏との付き合いは江戸時代を経て太平洋戦争後まで続いていたという。
 将軍が御鹿狩の時に使用した御立場は、昭和になっても残っていた。しかし、戦争が激しくなると、当時松飛台にあった飛行場から飛び立つ軍用機の邪魔になるとして、軍の命令で昭和18年に壊されてしまった。今は五香公園の中に記念碑だけがある。

 殺生を禁じていた小金原だから、狩りさえなければ、野生動物にとっては楽園だった。
 増えた馬や鹿、猪などが農作物を荒らすことも多く、牧と村の境には野馬除土手(のまよけどて)が作られた。高いところで3・5メートル、低いところで2メートル。土を掘ったところが空堀となり、これを野馬掘といった。野馬掘を挟んで両側に野馬除土手があるM字型の二重土手もあった。

小金原略図

 野馬除土手の普請と管理は農民の負担だったが、一部は幕府から日当が出たこともある。はじめは1日1人米5合(約700グラム)だったが、重労働だったので寛政13年(1801)に米1・5升(約2キロ)に増やされた。
 野馬除土手は宅地開発などでそのほとんどが失われたが、オウル五香の駐車場や五香駅の近くなどにわずかに残されている。

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 ※参考文献=「改訂新版 松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「柏のむかし」(柏市市史編さん委員会)、「小金原を歩く 将軍鹿狩りと水戸家鷹狩り」(青木更吉・崙書房出版)、「イラスト・まつど物語」(おの・つよし・崙書房)、「歴史読本こがね」(松戸市立小金小学校創立130周年記念事業実行委員会「歴史読本こがね」編集委員会)

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