8月17日 お盆は仏教

先日あるクイズ番組を見ていると「お盆に飾る花」だったかの話題で黒柳徹子さんが「うちはクリスチャンなのでお盆の行事はしたことがなく分かりません」とおっしゃっていました。確かにしたことがなければ見たこともないので分からないと思います。それにしても私とはえらい違いです。一応我が家は曹洞宗ということらしいのですが祖父母、父母の葬儀は祖父が友達になった坊様の真言宗で執り行いました。私の結婚式は母親のゆかりのある神社で挙式。子供たちは教会で結婚。年の初めは初日の出に行き太陽を拝み正月には近所の三社まいり。花の時期には寺院を廻りお盆には仏式の先祖供養。それを不思議とも思わず長年続けているのですがしっかりした宗教観をお持ちの人たちから見れば何と節操のないということなのでしょう。もともと自分で選んだ宗教はないので節操はなく「ありがたいものは何でも拝む」のですがただの儀式だと思っているので違和感はありません。

8月16日 送り火

我が家では8月13日の夜に「迎え火」をし15日に「送り火」をするのが習慣ですが今年は暴風雨ということで「迎え火」は14日にしました。ご先祖様がいる期間は三日間なので昨日「送り火」はどうすると妻に聞いたら出来なさそうなので「じゃあ明日でもいいか」ということで今晩「送り火」をすることにしました。随分いい加減な話だなと思ったのですが考えると祇園とともに京都の夏の風物詩「京都五山の送り火」は今晩ですよね。学生時代友達と一緒に見に行ったことを覚えています。我が故郷小倉には「小文字焼」というのがありましてこちらは13日の「迎え火」です。実家から少々離れていたので実物を見た記憶はありません。京都も小倉もいつから始まりどんないわれがあるのかは知りませんが小さい頃から盆には仏壇に飾り物をし「迎え火、送り火」をし宗派は違うのに祖父の友達だったという坊様がきてお参りしそのお寺であるお祭りに行くのが楽しみでした。

8月10日 ところてん

昨日の読売歌壇栗木京子氏の選に「酢醤油対妻の黒蜜ところてん味を譲らず早五十年:坪田勝彦」というのがありました。何とも仲のいいご夫婦で羨ましい限りです。栗木氏は一口か二口交換してみてはいかがでしょうとコメント。ところで私の記憶に残っているところてんは最初の赴任地福岡で出張先の久留米城址で頂いたものです。先輩から連れて行った貰ったのですがその時は酢醤油でした。またいつだったか兵庫県出身の同僚と千葉のゴルフ場に行ったとき茶屋でところてんが出たのですが「酢醤油にするそれとも黒蜜?」といい、こっちでは酢醤油なんだよなといいました。それまでところてんは酢醤油だろうと思っていましたので??と思ったのを覚えています。そこで初めて食文化の違いがところてんにもあり東は酢醤油、西は黒蜜だということを知りました。久留米のは東風だったのですね。日清ラーメンも静岡あたりで味を変えていると聞いたことがあります。

8月9日 原爆記念日

今日は長崎の原爆記念日です。もう77年間広島で長崎でこの日が来るたびにそして犠牲者の方々の献身的な活動で世界中に「NO MORE WAR」「NO MORE KAKUHEIKI」と訴えてきました。原爆のおかげでもっと悲惨な被害を阻止できたと考えている人たちもいますが、慰霊碑周辺の鎮魂の空気に触れた人々は資料館の惨たらしさを見るまでもなく「原爆は二度と使ってはいけない」と確信するようです。過去幾度となく非戦の誓いをしてきましたが人類は今日に至るまで戦争を止めることは出来ていません。もしかしたら我々の遺伝子の中に戦うことが刷り込まれているのかもしれません。しかし「原爆」はただの殺りく兵器ではありません。人間を影しか残らない程に高熱で焼き尽くし遺伝子を破壊し国土を激しく汚染してしまいます。戦争を理性で避けることができない人類は「核兵器廃絶」でしか途はありません。人類を自らの手で滅ぼしてはいけません。

8月8日 百日紅

「二十世紀ナシ」をその名前の由来にする松戸市二十世紀が丘の街路樹は「さるすべり」で今夏も立派に咲き続けています。ここはきれいに区画された町で40年位経つようですが百日紅は多分そこまで古くはないと思います。赤、白、紫があるのですが色使いには何となく括りがありそうです。「さるすべり」の名前はサルでも登れないほど木の肌がツルンとしているからとも聞きますが私は「百日紅」の方がピンときます。紅色だけではありませんが花の少ない夏、濃い緑の葉の中に咲くこの花はとても目立ちます。ボチボチ終盤戦に差し掛かっているのか木の根元に花弁が散らばっています。サンゴのかけらのような、ごく小さな縮れた花弁がついた小枝ごと落ちています。香りはまったくありません。金木犀のように騒々しくはなく桜のように妖艶でもありませんが確かに百日紅を主張しています。特別な思い出があるわけではありませんが私の夏の花は「百日紅」です。

8月5日 捨てられません

日経夕刊に劇作家の鄭義信氏があすへの話題に「祖母が残した端切れ」という題で書いている文章に共感。もう父母が亡くなって誰も住んでいない実家に帰りソファに腰をおろし部屋を見渡すとあちこちに母が残した物であふれていた。母は貧乏性なのかなかなか物を捨てられなかった。思い出すに祖母も実家から持ってきたのであろう布の端切れが入ったトランクを大事にしていた。脳を打ち一時錯乱したことがありその時端切れを裁断したが何故そうしたのかはわからない。私も還暦を過ぎそろそろ不要なものを整理しなければと思いながら「もったいない、いつか必要」と踏ん切りがつかないといいます。結構共感する人もいそうです。私の妻も数十年前子供たちが使ったタライをいまだに捨てずにいます。若い頃とはすっかり体形が変わったのに「もしかしたらまた着られるようになるかもしれない」と取ってあります。私は小さな声で「絶対にありません」というのですが。

8月3日 つけ込み契約

日経夕刊に「つけ込み契約 対策進まず」と出ていました。つけ込み契約とは消費者の加齢や知識・経験の不足など、合理的な判断ができない状況を不当に利用して契約を結ばせるもので有識者が長年こうした契約の取り消し権を求めるが実現していないという。例えば①認知症の兄嫁が勧誘されるまま複数の生命保険に加入し、生活に支障がでるほどの保険料を払い続けていた②スマホをあまり使わない高齢者が「セット販売が必要」と本来不要なタブレット端末などを渡され、通信料金を請求されたなど四つの相談事例がでていました。それでなくてもややこしい生命保険やスマホのこと、私も他人ごとではありません。消費者相は従来の取消権を超える側面があるとして「年齢・心身の状態」も考慮した情報を消費者に提供するよう事業者に努力義務として求めるにとどまったようですが、判断力の鈍い消費者の脆弱性につけ込む業者に対策すべきだとの声も高まっているようです。

8月2日 追伸

きのう近頃セミの声を全く聞かないと書いたのですが家に帰ってそれを話すと、いやいや家のそばにある森の方から物凄い合唱が聞こえてくると言われました。ということは単純に私が巡り合わないだけなのか鳴き声の周波数が私の耳と合わないのか(私は周波数の高い音が聞きづらい)ということなのでしょう。ところで通勤途中の畑には今ひまわりとまだ色づいていないコキアと吾亦紅と栗の実が一つ二つ落ちています。多分この畑は収穫用ではなく税金対策(?)なのでしょうかいわゆる食するものはあまり見ません。トウモロコシと豆が少し植わっているくらいです。それでも私にはありがたい場所で何となく季節が感じられる植物が植わっているからです。この畑の持ち主と思われる人の家には暖炉があり秋になるとどこから持ってくるのか手頃の長さになった薪が積み上げられています。暖炉のある家に住みあまり耕作していない畑があるあこがれの環境です。

8月1日 セミの鳴き声

最近セミの鳴き声を全く聞かなくなったように思います。、今日はいつものように柏にある代理店まで車で走ったのですが道中は牧の原団地から京成常盤平駅前のケヤキ並木、祖光院横の森と木が沢山生えているところを抜けるのですがその間まったくセミの声を聞きませんでした。少し前までは今時分アブラゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシなどそしてツクツクホウシが夏の終わりを知らせてくれました。確か枕草子の中にも「すさまじきもの」として出てきたように覚えています。日本の夏の象徴でした。それがこのところ気候、環境の変化で住めなくなったのかはたまた居るのだが突然変異で声が出なくなったのかとにかくまったく鳴き声を聞きません。それでなくとも短い地上での生活、子孫を残すことができなくなったのでしょうか。あのうるさいほどの鳴き声が全く聞こえなくなってしまうとそれとセットになっていた夏休みもどこかに行ってしまったのではと心配になります。