本よみ松よみ堂
小野寺史宜著『奇跡集』

満員電車に乗り合わせた7人の小さな奇跡の物語

 朝の満員電車に乗り合わせた7人の小さな奇跡をつづった連作短編集。
 第一話の主人公、青戸条哉(あおとじょうや)は大学一年生。試験が行われる一限の授業に出席するため電車に乗っている。ところが、お腹で竜が暴れだした。つまり、急激な腹痛に襲われたのだ。乗っている電車は快速で、ちょうど次の駅まで15分間止まらないという区間に入っていた。絶望的な気分になりながら、途中下車してトイレに行けば試験に間に合わないかもしれないと、あれこれ思いをめぐらす。腹痛が限界に達して、しゃがみこもうとした瞬間、隣に立っていた女性が急にしゃがみこんだ。気分が悪くなったのだ。周りの乗客も驚いて様子を見ている。しゃがみこんだ女性を気遣って、女性の前に座って文庫を読んでいた女性が声をかけている。
 満員電車の中では、みんな無言で自分の世界の中にいる。この短編集では、それぞれの主人公が今までの人生について思いをめぐらす。青戸条哉も子どもの頃からお腹が弱かったことや、引っ込み思案で、大学でもなかなか友達ができないことなどを考える。
 第二話は、急にしゃがみこんだ女性に声をかけた文庫を読んでいた女性、大野柑奈(おおのかんな)の物語。繰り返し読んでいるのは、家族小説。大学時代は演劇にのめり込んだが、卒業後は普通に就職する道を選んだ。末期がんでホスピスに入院している父とは、葛藤があった。
 第三話は、ガラッと変わって、密造銃に関わっている疑いのある黒瀬悦生(くろせえつお)を尾行する刑事、東原達人(ひがしはらたつひと)の物語。東原は殉職した父と同じ警察官という道を選んだ。駅を出て黒瀬の尾行を続けたが、思わぬ出来事に遭遇する。
 15分の快速運転の後やっと駅に着いた電車は、人が線路上に立ち入ったという情報があったためしばらく停まる。やっと動き出したかと思ったら、次の駅に着く直前に、今度は痴漢事件が浮きる。
 15分の快速運転の間に気分を悪くしてしゃがみこんだ女性、次の駅での長い停車、痴漢事件という流れが、タイムループのようにこの後繰り返し描写され、同じ車両の同時刻に起きた出来事だということが分かる仕掛けになっている。
 第四話の主人公、赤沢道香(あかざわみちか)はこの痴漢事件を目撃し、疑われている男性が冤罪だと確信する。34歳の彼女は5年ぶりのデートに向かっていた。自身も痴漢にあった経験がある道香は、ある行動をとる。
 第五話の主人公、小見太平(おみたいへい)は大手食品会社のサラリーマン。大学時代はロックバンドをやっていた。会社の中でもクリエイティブな仕事がしたいと思い、広報宣伝部に異動を希望し、やっと念願が叶ったのだが、仕事で失敗してしまった。代替案を上司に提示しなければならないが、まだ何も思いついていない。
 第六話の主人公、西村琴子(にしむらことこ)は、交際相手・古場豊久(こばとよひさ)の浮気相手、岩渕奏緒(いわぶちかなお)を尾行している。琴子は44歳、豊久は8歳下の36歳、奏緒は16歳下の28歳。尾行などして何になるのか、琴子自身にも分からない。そして思い出すのは、20代のころに付き合っていて、今は漫画家として成功している福島静之(ふくしましずゆき)だった。
 第七話の主人公は、第三話で東原達人が尾行していた黒瀬悦生だ。尾行される立場から第六話の琴子や東原のことを観察している。そして、犯罪に手を出すようになるまでの自分の少年時代や、「初めて会った、心底善良な人間」である恋人の設楽実麻(したらみま)のことを考える。
 これって奇跡かも知れない、そう思える瞬間は本人の気づきから始まる。そんな小さな奇跡を集めた物語は、どの話も読後感が良かった。【奥森 広治】

集英社 1600円(税別)

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