わたしのページ(読者投稿)
2021年8月22日

女子ソフト金メダルで感じた事
 連日の猛暑の中、東京オリンピックが開催された。今大会、日本は金メダルラッシュにわきました。おめでとうございます。
 その中でも、女子ソフトボールの金メダルはすごいと思いました。
 ピッチャーの上野選手は13年前の北京大会でもエースとして金メダルに輝きました。その後、大きなケガをしても、新しい自分に出会うためとして克服して、さまざまな試練を乗り越えられたのは信念を曲げなかったからだと思います。
 また、ソフトボールはチームスポーツです。みんな一人ひとり個性もあり考え方も違います。上野選手も自分一人で勝てるとは思っていません。みんなでやるんです、とおっしゃってました。個人の努力だけでなく、みんなでまとまる。そして、お互いに感謝するという気持ちをすごく感じました。
 日常に当てはめてみますと、職場でも家でもみんないろいろあります。自分のできることを一つひとつやる。そして周囲に対してありがとうの思いを忘れずに、とあらためて思いました。
(二ツ木・渡辺明子)

がんばれ専松!応援しています
 第103回全国高校野球選手権大会(8月10日開幕、甲子園球場)に我が地元の専修大学松戸高校が見事、全国的にもレベルの高い千葉県の県予選を勝ち抜いて千葉県代表に名乗りを上げて、春に次いで夏の甲子園球場に帰ってきました。
 春季の関東大会2021で優勝したことも記憶に新しいところです。
 今大会大会4日目、13日に試合する予定でしたが雨の影響により順延になっていましたが、16日に強豪高校の大分明豊相手に6対0の完封勝利をあげました。
 1戦ごとに強くなって優勝まで一歩ずつ勝ち続けてください。応援している方々にこれからも決勝まで感動と勇気を与えてくれることを期待しています。これからも応援し続けたいと思います。
 (胡録台・高校野球)

帯状疱疹になったときの話
 数年前、帯状疱疹になった時の話。
 わたしの場合、まず目の周りが腫れたので眼科へ行ったのだが、そこでは帯状疱疹とは分からなかった。
 2日後、顔に赤い発疹と水ぶくれのようなものが現れたので皮膚科に行ったのだが、医師はろくに患部もわたしの目も見ず、正しい診断はされなかった。翌日、症状が酷くなり、また眼科に行ったが休診日で、そのまま皮膚科に寄って見てもらったが、やはり診断されなかった。
 帰りに調剤薬局で薬をもらった時に、薬剤師さんと話をすると、違う眼科に行くことをすすめられた。いくつかの眼科を教えてもらい、すぐに向かった。そこで病名が帯状疱疹だと分かった。眼科で目の薬をもらい、目以外は皮膚科の治療が必要なので、その足でまた皮膚科に行った。
 くだんの医師とは馬が合わなかったが、もう違う皮膚科に行く体力は残っていなかった。そこで色々頑張ってくれたのが薬剤師さんだった。わたしの話をちゃんと聞いてくれた上、医師に薬を変える相談・提案をしてくれた。
 帯状疱疹になって、何人かの医師、看護師、薬剤師の仕事を見たが、本当に医療の質に差があると感じた。患者に対する態度も様々だった。
 病名を教えてくれた眼科医は、きちんと目を見て話をしてくれ、その後も、いつも丁寧に診察してくれた。帯状疱疹の焼けるような痛みはとても辛かったが、よい眼科医に出会えて幸運だった。
 それと、なんといっても今回、本当にお世話になったのは、担当してくれた薬剤師の女性だ。親身になって相談に乗ってくれ、色々と助けていただいた。とても心強い存在だった。今でも心から感謝している。(雨上がりの虹)

もっと何か方法がなかったのか
 先月、テレビ報道でアメリカに12年住んでらっしゃる女性のお母さんが危篤というので、急遽帰国したら外国から来た人は14日間成田にいなければならないと、九州への乗り継ぎ便の手配は駄目と言われ、「もしどうしても行くなら公共交通機関を使わず、レンタカーを借りて14時間運転して行ってください。その方法しかありません」と言われたとの事でした。
 その方は運転免許証も持っておらず、それに加えてご自身も手術を受けたばかりで(何の手術かは判りませんでした)術後の検査のため14日間も成田にいるわけにはいかないからと、何度説明してもOKが出ず泣く泣くあきらめアメリカに引き返したとの事。
 彼女は「お母さんは薄情な娘だと思っているでしょうね」と話していましたが、その後の取材で1か月後にお母さんは亡くなられたとの事でした。最後に彼女が「日本は外国人には優しく、日本人には厳しい国ですね」と言われたのはわたしの心にもぐさっと刺さりました。
 でも、わたしが普段思うことは、日本は偉い人や外国人には忖度が働き、一般の人たちには前例を言い訳にしていることが多々ある事です。特に役所関係の人は自分が責任を取りたくないのか、人の情さえも捨ててる様にみえます。
 今回の事も、違う方法は本当に無かったのでしょうか。例えば彼女のワクチン接種が既に終わっていれば良いとか、PCR検査を2、3日続けてやってもらうとか、それは素人の考える事ですが、もっと何とか方法があるはずと相手に寄り添って考えて欲しかったと自分に置き換えて残念に思いました。
 (根本・ミミチャン71)

オニヤンマ、赤とんぼの話
 朝から厳しい暑さ、その日の午後のことでした。
 庭に置いたバケツの水が何故か波立っていました。覗いてみると、柄杓の隙間に翅(はね)を挟まれ、もがいているトンボが一匹。急いで柄杓を持ち上げると、トンボは飛び出し、近くの壁にしがみつきました。
 黒地に黄色の縞模様はまさに「鬼のパンツ」。体長9cmほどだから、オニヤンマだとすぐ分かりました。我が家の隣の神社には清水地(5m四方)がありますから、そこで育ったのでしょう。しばらく見守っていましたが、よほど弱ってしまったのか壁にしがみついたままでした。翌朝チェックすると、可哀そうに壁の下で死んでいました。
 「トンボ釣り 今日は どこまで行ったやら」(詠み人・加賀千代女)。
 これは幼い頃、「楽しい句」だとばかり思っていましたが、実は悲しい母心を歌った句ですね。千代女には子どもがいましたが、早くに病気で失ったのでした。
 夕焼け小焼けの赤とんぼー、「赤とんぼ」の歌も浮かんできました。そして、赤とんぼが絶滅危惧種になってしまったことに気が付きました。(自然は一番 78)

8月15日終戦記念日に思う
 8月15日は終戦記念日だ。新聞に毒蝮三太夫さんの「戦後七十六年 刻むつなぐ」が載っていた。
 9歳の時東京大空襲に遭い、逃げる時に「こんなに苦しいんだったら、死んだ方がましだ」と言うと、お袋さんが「死ぬために逃げるんじゃない、生きるために逃げるんだ」と、言ったとのこと。また逃げる途中で、拾った革靴の片方に足首が入っていたが、それを捨てて革靴を持ち帰った。死体がゴロゴロ転がっていて、なんとも思わなかった、とも書かれていた。
 わたしは4歳の夏に終戦を迎えた。毒蝮三太夫さんのような悲惨な目には遭わなかったが、街角に立つ白衣を着た傷痍軍人の姿は今も忘れられない。赤紙一枚で、どれだけ大勢の人間が戦死したことか。
 今も世界では戦争が行われている。上に立つ者の責任の重さを改めて考えさせられる。
(常盤平在住)

毎日読む、読売新聞の人生案内
 読売新聞の人生案内を毎日読みます。
 評論家の樋口恵子先生の「命を与え育てた親の終末を見届けるのは子の役目」との回答に思わずヒザを叩き、おっしゃる通りとうなずく。また、精神科医の野村総一郎先生の回答を笑いながら読み、新聞をとじます。
 ある日、「施設にいる夫がかわいそうで後悔の念で苦しい」との相談内容に、目が点になり、新聞を繰り返し繰り返し読み、最後は涙目になりました。デイサービスに通う81歳認知症の我が夫と重なり…。何度、お泊りのある施設に、と思ったことかしら。
 朝食後の薬も飲まずにウトウトしている夫を見ながら、「老老介護で共倒れ」の回答の新聞を、もう一度声に出して読み、一日が始まります。(匿名希望)

坂田純子さんの作品

勝ぞう(高塚新田)

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