チューニング 2020年9月27日

 本土寺参道にある工務店の敷地内に秋山都摩(つま)の墓跡を示す小さな石碑を見つけた。この碑は松下邦夫氏の『松戸の歴史案内』に写真が出ていたが、どこにあるのか知らなかった。ずいぶん松戸を歩いたつもりだが、知らないことも多い▼お都摩は、甲斐武田家の家臣秋山虎康の娘で、武田家が滅んだ後、15歳で徳川家康の側室となり、小金3万石の領主となる信吉(5男)を産んだ。お都摩の方は、天正19年(1591)に24歳の若さで病没し、本土寺の参道脇に葬られた▼信吉は佐倉4万石に移封後、慶長7年(1602)水戸15万石に移封されたが、翌年の9月に病死した。家康は甲斐源氏の名門・武田家が滅亡したことを惜しみ、信吉に武田を名乗らせて再興を図ったが、かなわなかった▼水戸には信吉の弟で11男の頼房が入った。水戸黄門こと徳川光圀は頼房の3男で、信吉の甥にあたる。光圀は鷹狩りの際にお都摩の墓といわれる「日上(にちじょう)の松」を発見した。日上はお都摩の法名で、墓石はなく、目印としての松の老木が生えているだけだった▼光圀は遺骨を探させたが見つからず、墓土を新桶に納め手厚く供養し、本土寺の本堂脇に立派な墓石を建てた。本土寺参道もこの時光圀によって整備されたという。

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