歩いてみよう 矢切

 矢切の渡しや野菊の墓文学碑などで全国的にも名前が知られている矢切。矢切・栗山の斜面林は松戸市内に残る貴重な緑として、その一部は特別緑地保全地区に指定されている。矢切の歴史と散策スポットを紹介する。【戸田 照朗】

下総国の中心地

 北総線矢切駅前を走る県道を市川方面に少し行けば、そこは市川市国府台(こうのだい)という土地である。この地名からわかるように、ここには古代、下総国の国府があったことが推測される。じゅん菜池緑地の近くにある千葉商科大付属高校や和洋国府台女子中学の南側には国分尼寺跡や下総国分寺がある。このことから、この地域が下総国の中心地で、交通の要所であったことが推測される。
 矢切地域では東京外郭環状道路の工事が進み、まちを分断するように巨大な道路が建設された。
 この道路工事のため地面を掘り返したところ、古代の道路の遺構

外環道の工事の時に発掘
された古道(上・下)

が2条出土した。道路は幅2~4メートル。水はけをよくするためか、両脇に側溝が掘られていた。ちょうど、愛宕神社の前の道路と並行して走るように、南北に真っ直ぐに伸びていた。

戦火の記憶と地名

 矢切の読みには、古来、ヤキリ、ヤギリ、ヤキレ、ヤギレなど4つの呼名があるが、矢切の地名が初めて文書として出てきたのは本土寺の「大過去帳」で、そこには文安4年(1447)の記述としてヤキレの文字がある。また、地元の人たちは近年までヤキリ、ヤキレと濁音のない呼び方をしていたようだ。
 しかし、石本美由起作詞、船村徹作曲の演歌「矢切(ヤギリ)の渡し」が細川たかしの歌で1983年に大ヒットしたことで、ヤギリという濁った呼び方が有名になり、北総線の駅名にも採用されている。この曲は、もともと、ちあきなおみの歌で1976年に発表されたもの。83年には、細川のほかに瀬川瑛子、中条きよし、春日八郎&藤野とし恵、島倉千代子&船村徹など7種のシングルが競作で発表された。美空ひばりと中森明菜も後にアルバムの中に入れている。
 地名の起こりについてははっきりしない。戦乱にまつわるものと、「谷が切れる」という地形からきたという説などがある。矢切地域は下総国府の近くにあり、また、太日川(江戸川)沿いにあるという土地柄から、古くは平将門の乱から豊臣秀吉の関東平定まで、少なくとも7度の大きな戦に巻き込まれた。矢切の名は、武士の主な武器の一つである矢が切れる、つまり戦を忌み嫌うところから生まれたとの説もある。あるいは、激戦の末、この地で矢が尽きた(切れた)という意味だろうか。下矢切には「矢喰村」の文字が古書や庚申仏に残っている。
 特に天文7年(1538)の相模台の合戦と永禄7年(1564)の国府台の合戦は矢切地域に大きな被害をもたらした。
 相模台の戦いは、小田原の北条氏綱、氏康の7千騎と安房や上総で勢力を拡大していた里見義堯(よしたか)と、義堯が盛りたてていた小弓公方(おゆみくぼう)足利義明(よしあきら)の3千騎が松戸から市川にかけて戦った。
 小金城主高城胤吉(たねよし)は、小弓城(千葉市)を不意に襲ってきた里見軍と義明に奪われ、城を守っていた一族や家臣を失ったことから、北条氏に味方した。
 里見軍は松戸の陣ヶ前に主力を置き、北条軍は江戸川を渡り合戦に及んだ。10月7日午後4時から3時間にわたる激戦で、義明は自ら大太刀を振って奮戦したが、矢切台で戦死した。
 国府台の戦いでは、小田原の北条氏康、氏政の軍と安房の里見義弘(義堯の子)の軍が矢切の台地から栗山、国府台にかけて激しい合戦を行った。小金城の高城胤辰(胤吉の子)も再び北条氏に味方した。
 合戦は1月8日、北条軍が矢切の渡しのからめきの瀬を渡り、大坂(野菊の墓文学碑下)で始まったが、たちまち里見軍が勝利した。
 大勝で気をよくした里見軍は、夕方から降り出した雨に、合戦は翌日だと考え、鎧を脱ぎ、馬に飼葉を与えて休息。その隙に北条軍が包囲。夜襲をかけて、一気に形勢を逆転した。
 高城氏は野田市南部から流山、柏、我孫子、松戸、市川、鎌ヶ谷、船橋、印旛、葛西などに領地を持っていたが、相模台の合戦の戦功で北条氏から神奈川県海老名市と横浜市栄区飯島町を与えられた。国府台の合戦では、埼玉県三郷市、葛西、亀戸、牛島から行徳、船橋に及ぶ所領を与えられ、従五位下下野守に任ぜられた。小金城2代城主で国府台の戦いに従軍した胤辰の時に領地を最も広げた。
 一方で、戦場となった矢切村は悲惨な目にあった。庚申塚保存会発行の冊子の中で深山能延さんは「この二度の決戦場であった矢切台は家は焼かれ田畑は踏み荒らされ、女子供は着のみ着のまま逃げまどい、男達は人足に狩り出され傷つき、一家は生き地獄の苦しい生活を何年も強いられたことになります。この虐げられた苦しみ、反抗の怒りが、矢キレ、矢ギリ、矢を喰ってやる憎しみが矢喰村を表現したものと思います」と書いている。

天変地異と全村移転

矢切神社の前にある矢喰村庚申塚

 戦乱の世が終わり平和の世となった江戸時代、日本列島を天変地異が襲った。その状況は、阪神淡路大震災、東日本大震災と巨大地震が続く現代の状況と似ていなくもない。
 元禄16年(1703)11月23日午前2時、房総半島の鴨川沖から相模湾にかけてを震源とするマグニチュード8・0~8・2の「元禄の大地震」が起きた。8~12メートルの津波が三陸から紀伊半島を襲ったという。死者数万人に及んだ。
 翌年の宝永元年(1704)は、6月下旬から7月にかけての長雨による大洪水が関東地方を襲った。
 宝永4年(1707)10月4日にマグニチュード8・4の「東海・東南海地震」が発生し、津波が関東から九州を襲った。死者は3万人を超えた。
 また同年11月23日には富士山が噴火し、火山弾、火山灰の被害をもたらした。この時、富士山の中腹に寄生火山「宝永山」ができた。
 それまで、矢切の農家は農耕に便利な江戸川沿いの低地に住んでいた。しかし、宝永元年の水害を受け、村をあげて、民家も寺社も台地上に移転を開始した。その移転には数年を要したと推測される。
 しかし、上、中、下の三矢切村の中で上矢切だけは、この時に二分され、自然堤防上にあった地域はそのままの場所に残った。宝蔵院と神明神社は移転せずに残ったという。
 しかし、皮肉なことに台地上に移転して以降は、それまでにはなかった生活の不便を感じるようになったという。それは、仕事場である農地に行くためには必ず坂を下りなくてはならないということと、台地上の水不足だった。
 また、洪水で悩む流山、下谷、馬橋の人たちが悪水落とし(坂川の開削)を柳原水門まで作ると計画をしたところ、上、中、下の三矢切、栗山村では激しい反対運動が起こり、天保4年(1833)の浅間神社下の乱闘では下矢切の農民3人が入牢、死亡した。
 坂川の治水問題がようやく解決を見るのは、明治42年(1909)、樋野口に当時東洋一といわれた蒸気の排水機場ができてからだ。
 ※参考文献=「松戸の歴史案内」(松下邦夫)、矢喰村庚申塚(庚申塚保存会)、「やきりの話」(石原修)
 ※地図作成=寺澤美希

あわせて読みたい