松戸周辺の城跡を訪ねて⑳

真間山 弘法寺を散策

市川城跡

 市川城という城がどこにあったかは定かではない。今回はいつも参考にさせていただいている「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)の説に従い、市川市の真間山弘法寺(ぐほうじ)境内を市川城跡として紹介する。弘法寺は見所が多く、散策も楽しい場所だ。

【戸田 照朗】

 

戦国初期の市川合戦

伏姫の伝説がある里見龍神堂

伏姫の伝説がある里見龍神堂

日蓮聖人が彫った大黒天像を祀る太刀大黒尊天堂

日蓮聖人が彫った大黒天像を祀る太刀大黒尊天堂

鐘楼がある盛土は土塁の跡?

鐘楼がある盛土は土塁の跡?

樹齢400年以上のしだれ桜「伏姫桜」(弘法寺提供)

樹齢400年以上のしだれ桜「伏姫桜」(弘法寺提供)

 京都の室町幕府が関東10か国を統治するために置いたのが、鎌倉府。その長官である鎌倉公方は世襲で足利尊氏の子孫が務めていた。鎌倉公方を補佐する関東管領は上杉氏の世襲だったが、関東管領の任命権は鎌倉公方ではなく、室町幕府の将軍(こちらも足利尊氏の子孫が世襲)にあった。同じ尊氏の子孫として幕府の将軍にも就任できる可能性を持つ鎌倉公方は、将軍の意をくむ関東管領とたびたび対立した。
 第4代鎌倉公方足利持氏は、永享の乱で永享11年(1439)に幕府により討伐された。その子、成氏(しげうじ)は後に許されて、鎌倉公方を継いだ。しかし、成氏も上杉氏と対立するようになり、享徳3年(1454)12月27日、関東管領上杉憲忠を御所に招き寄せて謀殺した。成氏は相模国、武蔵国内を転戦し、翌年の3月ごろに古河(茨城県古河市)に入った。古河は、利根川から江戸川が分かれる関宿町の分岐点、つまり千葉県の北の端から利根川沿いに少し上流にいったところにある。ここは、鎌倉時代は執権北条氏の領地だったが、室町時代には鎌倉公方の直轄地となっていた。成氏はこの地で古河公方を名乗るようになる。永徳3年に起こったこの争いは30年近くも続き、享徳の乱と呼ばれる。
 このとき千葉氏では、古河公方につくか、関東管領につくかで内部で対立が起きた。
 享徳4年に胤直と息子の宣胤、胤直の弟の胤賢が古河公方を支持する叔父の康胤に滅ぼされた。胤賢の息子の実胤と自胤(これたね)は生き延び、上杉氏の支援で市川城に拠って戦った。康正2年(1456)1月には、市川から真間、国府台にいたる市川合戦(市河合戦)で市川城は攻め落とされた。多くの戦死者を出したが、実胤と自胤は生き延び、下総国を追われ武蔵国に本拠を置いた(武蔵千葉氏)。
 「東葛の中世城郭」によると、文政12年(1829)に成立した「江戸名所図会」には、「市河城址、其地今しるへからす」と書かれているが、その後に発行された「成田参詣記」では、市川城は国府台城(前号で紹介)の前身だとしているという。
千野原さんは、古文書によると、市川という地名と国府台という地名が当時から使い分けられていたことなどから、市川城と国府台城は別の城だと見ている。そして、市川城跡ではないかと推定しているのが、真間山弘法寺のある台地である。
 市川城に立てこもり戦死した将兵は日蓮宗の檀越(だんのつ)・門徒であり、同寺施設を利用した城で、寺院を要害化した宗教色の強い城であったと推定している。

弘法寺の縁起と境内の見所

伏姫の伝説がある里見龍神堂

伏姫の伝説がある里見龍神堂

日蓮聖人が彫った大黒天像を祀る太刀大黒尊天堂

日蓮聖人が彫った大黒天像を祀る太刀大黒尊天堂

弘法寺古墳(前方後円墳)も土塁として利用か?

弘法寺古墳(前方後円墳)も土塁として利用か?

手児奈の哀話が伝わる手児奈霊堂と池

手児奈の哀話が伝わる手児奈霊堂と池

 まだ仏教が国家のためのものであった奈良時代に朝廷の弾圧を受けながらも民衆のために布教し、貧民救済や治水、架橋、開墾などの社会事業を行い、人々から篤く崇敬された行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が、天平9年(737)この地に立ち寄り、里の娘・手児奈(てこな)の哀話(後述)を聞いて、哀れに思われ、一宇を建てて求法寺(ぐほうじ)と名づけ、手厚くその霊を弔われたのが、弘法寺の始まりとされる。
 平安時代の弘仁13年(822)に、弘法大師空海が布教に訪れ、七堂伽藍(しちどうがらん)を再建し、弘法寺と改称した。
 鎌倉時代の健治元年(1275)に時の住職、関東天台の一大学匠であった了性法印信尊(りょうしょうほういんしんそん)と日蓮聖人の檀越で、後に中山法華経寺を開創した富木常忍公(ときじょうにんこう)の間で問答があり、日蓮聖人は後に六老僧となる弟子の伊豫阿闍梨日頂聖人(いよあじゃりにっちょうしょうにん)を遣わし、対決させた。法論の結果、伊豫阿闍梨日頂聖人が勝ったため、同寺は法華経(日蓮宗)の寺となった。
 台地南麓の石の階段を登って境内に向かう。台地の比高は15~17メートルだというが、63段ある階段の下から見上げると、この台地自体が天然の要害であることがよくわかる。
 下から27段目の左に「涙石」という伝説の石がある。
 江戸時代、作事奉行(さくじぶぎょう)だった鈴木長頼は、日光東照宮の造営のために使う石材を伊豆から運ぶ任に就いていた。船で海を渡り、江戸川に入り、市川の根本付近にさしかかると、船が動かなくなってしまった。長頼は弘法寺に仏縁があると感じ、石を国府台に降ろして、お寺の石段に使ってしまった。幕府から責任を問われた長頼は、石段で自刃して亡くなった。それからというもの、石段の1つがいつも濡れており、これは長頼の血と涙だと言われている。
 石段を登り切ると、目の前に立派な仁王門が現れる。
 仁王門を入って右手には、鐘楼がある。この鐘楼は長細い盛土の上に建てられており、ここが城跡であるとすれば、土塁の一部だと考えられるという。
 鐘楼のある盛土の前には樹齢400年以上と言われる「伏姫桜」というしだれ桜がある。伏姫は曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」に出てくる登場人物のひとりである。
 境内には向かって右から祖師堂、客殿、本殿が並んでいる。本殿には、前出の富木常忍公が発願し、日頂聖人が開眼したと伝わる日蓮宗最古の木像「真間の釈迦仏」が安置されている。
 本殿の左隣にある赤門の奥には里見龍神堂、太刀大黒尊天堂、真間道場がある。
 里見龍神堂も伏姫にまつわるお堂で、前号で紹介した国府台城跡に共通して、この地域には安房の里見氏にまつわるものが多い。
 太刀大黒尊天堂は日蓮聖人が比叡山で修行している時に彫刻したという太刀を持った大黒天像を祀っている。日蓮聖人はこの像を55歳まで大切に持っていたが、弘法寺が法華経の道場になった時に、日頂聖人に授与したという。
 真間道場のさらに左奥には弘法寺古墳という前方後円墳がある。全長43メートル。6世紀後半から7世紀前半に造られたと推定される。台地の崩壊で現在は半壊状態になっている。城跡だとすれば、こうした起伏も土塁として利用された可能性があるという。境内には真間山古墳という円墳もある。
 そのほかに城らしい痕跡として、県道市川松戸線から弘法寺のある台地に切り込むようにして入る切通の坂道があるが、空堀・堀切の跡のようにも見える。
 境内を出て、石段のところに戻ると、その近くに手児奈霊堂がある。
 その昔、真間の里に手児奈という美しい娘がいた。多くの男たちが求婚したが、人が争い傷つくことに心を痛めた手児奈は真間の入江に身を投げてしまった。
 里の人々は手児奈の心情を哀れみ、祠をつくって手厚く葬った。
 万葉歌人の山部赤人はこの地を訪れた時に、「われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処(おくつきどころ)」と詠んだという。
 手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられている。文亀元年(1501)に弘法寺七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として建てたという。
 手児奈霊堂の横には池があるが、昔はここまで入江が来ていたという。
 境内には昭和56年7月26日の第3回市川ほおずき市に、当時市川市に在住していた歌手のさだまさしさんが奉納した桂の木が植えられている。桂の木は縁結びの木として霊験があるという。
 ※参考文献=「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)、「松戸市史 上巻 改訂版」(松戸市)

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