松戸周辺の城跡を訪ねて⑱

 

土塁の跡のようにも見える熊野神社参道両脇の起伏

野田市 目吹城

 貴族に代わり武士が頭角を表しつつあった平安時代の後期。935年には承平・天慶の乱(平将門の乱と藤原純友の乱)が関東と瀬戸内海で起きた。東北地方でも1051年に前九年の役、1083年に後三年の役という大きな合戦が起きた。
 この後三年の役に従軍した鎌倉権五郎景政(平景政)は、右目を射られながらも奮戦し、戦後に右目を養生した土地に「目吹」の地名が残されたという。『千葉県東葛飾郡誌』(大正12年に千葉県東葛飾郡教育会によって書かれたもので大正時代までの歴史、地理、産業、住民の暮らしなどが書かれている)には、この地が鎌倉権五郎景政の館址で、戦国時代には佐々木義信や丸山将監が城主だったという言い伝えが書かれている。

土塁の跡のようにも見える熊野神社社殿裏の起伏

 また、このシリーズの⑭で紹介した木野崎城と同じように一色氏の支配下にあったという。
 足利尊氏が建てた室町幕府は関東の拠点として鎌倉府を置いた。その初代鎌倉公方が尊氏の子・足利基氏だ。内紛などがあり、関東の情勢は混とんとし、基氏の子孫は古河公方を名乗るようになる。一色氏は鎌倉府の奉行衆で、戦国時代には古河公方の家臣として古河・幸手を拠点とした。
 目吹城は利根川南岸の低湿地帯(水田)を望む台地上にあった。東端には元禄11年(1698)に創建されたという熊野神社がある。参道の両脇や社殿の裏などに起伏が見られるが、あるいは土塁の跡だろうか。
 ※参考文献=「東葛の中世城郭」(千野原靖方著・崙書房出版)
【戸田 照朗】

※写真、地図はクリックすると拡大します。

正面から見た熊野神社

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