昭和から平成へ【71・最終回】
14年間の連載に感謝を込めて

 

昭和から平成へ 第Ⅲ部 夢見るころを過ぎても(71)

昭和の森博物館 理事

根本圭助

筆者(左)の自宅を訪れた橋口監督

 長距離ランナー「昭和」からバトンをつないだ「平成」も早や30年を過ぎた。
 昭和10年に生まれた私も現在83歳。因みに生を受けた昭和10年から時代を83年溯行すると、「明治」を軽く通りすぎて江戸時代の嘉永5年になる。
 この年は、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが、遺日使節も兼ね、アメリカ大統領の国書を持ち、軍艦(黒船)4隻を率いて出航。翌年浦賀に来航し、徳川幕府に修好通商(開国)を迫った。好むと好まざるとに拘(かかわ)らず、鎖国から開国への道が拓かれた年であった。
 このように他愛ないことに思いがいくのも83歳という年齢が近頃何かと意識の底でちらちらするためで、これは文字通り老いの繰り言に過ぎない。山田風太郎さんの『人間臨終図鑑』によれば、83歳で亡くなった人は、孟子、ゲーテ、ユゴー、ビスマルク、ドガ、フロイト、正宗白鳥、古今亭志ん生(五代目)、毛沢東、伊藤大輔…という人達の名が並んでいる。それにしても世の中は変った。変わり過ぎた。一家三世代が食卓を囲んだ、かっての茶の間の情景も昔の夢物語になった。
 核家族という言葉さえ死語となり平均寿命は確かに延びたが、その分独居老人の数が増えた。新聞を読まない、購読しない人が増え、活字離れで、街から本屋さんの姿が次々と消えている。今は「スマホ」「スマホ」である。
 電車の中では男も女も一斉にスマホを取り出して熱心に何かをやっている。見方によっては、異様にさえ感じられる光景である。世の中が便利になり過ぎて、そうしたものに縁のない老人には、逆に住みにくい世の中になった。生まれる時も、死ぬ時も大半は病院である。だから昔のように「○○生誕の家」というのもこれからは無くなることと思う。少子化で、先祖代々の墓を引きつぐ人も少なくなり、「墓仕舞い」という言葉さえ生まれた。
 無差別殺人など、理解しにくい凶悪犯罪も増えている。家族の絆も弱くなり、それによる事件も増えている。
 何かが狂ってしまった。昔は良かったなどという言葉を口にする気は毛頭無いが、昭和の霧の彼方に、何か大事なものを忘れて来てしまったような気がしてならない。
 戦後の東京の焼け跡に立った多くの人の中で、今日の大都会となった東京の姿を予見した人が何人居たことだろうか。おそらく一人としてそんな人は居なかったことと思う。しかし、得たものは大きいが、失ったものも決して小さくはない。
 天皇陛下が退位されて、来年は新しい年号が誕生するという。昭和という時代が、また一段と遠くへ去ってゆく気がする。先年、共立女子大での講演会に招ばれた。私が日頃親しくしている友人達10余人が「女子大のキャンパスへは入ったことが無いので同行したい」と言って来た。担当の教授へ話すと、「セキュリティがきびしいけれど身元がしっかりしていれば-」と許可してくれた。
 入口を入ってすぐの会場(教室)は400人まで入れるという超マンモス教室で、そこに300人を超す学生が集まり、一杯になった。大きなスクリーンが設けられ、客席(?)の後の方は勾配が上って最後尾には何人かの教授と関係者が立ったまま横に連っていた。

筆者が描いた台東区立下町風俗資料館のポスター(一部)

 今まで数え切れぬ程の講演会に招かれてきたが、今回が一番疲れた。これまでの講演会では聴衆の求める話題がしっかり把握出来たが、何しろ今回は平成生まれ、平成育ちのお嬢さんばかりである。手塚治虫「知らない」。鉄腕アトム「知らない」。スクリーンに写るテレビキャラクターにしても学生達は知らないものが多いようで、講演後に送られて来た学生達の感想文やアンケートから、逆に私は色々と教えられた。いつもは話がはずんで、帰宅してから、「また知ったか振りをしてしまった」と自己嫌悪になるのが常だが、この日は完全に打ちのめされたような気分になった。「時代には勝てない。も早や私達の時代は終わったんだ!」。色々教えこまれた一日だった。「人間は青年で完成し、老いるに従って未完成になってゆき、死に至って無になるもの」。何かで読んだことがある。
 ところで、昭和から平成へ移る頃、上野不忍池々畔にある台東区立下町風俗資料館で、「東京の戦後展」という企画展が開かれた。大好評だった。その折に私は初代館長の松本和也さんと親しくなり、それ以来、館の企画展のポスターはすべて私が手がけるようになった。それは松本さんが館を離れるまで続いた。何でも小沢昭一さんがこの一連のポスターを大変気に入ってくれたそうで、松本さんが嬉しそうに私に話してくれた。台東区の教育委員会に籍を置く松本さんは、口語俳句の俳人としても知られ、ユニークなお人柄の人だった。雑誌その他でポートレートを撮られる時は、一見ホームレス風な写真を撮り、それが私の家へ来る時は、バリっとした紫色の背広姿で現れ、私は度肝をぬかれた。
 松本さんのことは、本シリーズで詳述したことがあるので、ここでは省かせていただくが、とにかく、戦後の東京への思いをドロド

ロとマグマのようにそのまま内包し、シャイでユニークなお人だった。その頃私は新松戸へ開館する「昭和ロマン館」の開館準備に追われていたが、このポスターの仕事は本当に楽しかった。
 そして、本紙のこのシリーズは平成16年5月9日から編集部の戸田さんに口説かれて連載をはじめた。途中一寸休んだこともあったが、単純計算で14年も続けてしまった。
 物事にはすべて潮時というものがある筈なのに、恩師小松崎茂先生の生涯から始まり、老人の戯言(たわごと)とでも言おうか私自身の思い出話を綴って、あっという間の14年間だった。前半は分厚い単行本になり出版されている。
 優柔不断で、だらしない私自身の思い出は実はまだまだ終わっていないが、この辺りで、一区切りつけることになった。
 恩師小松崎茂先生のことを書いた『異能の画家 小松崎茂』(光人社刊)を熟読して下さった多くのファンも居て、劇作家の岡崎柾男氏の手で一人芝居用の戯曲も完成したが、演ずる筈の野田市の梅田宏さんが多忙すぎて時を逸してしまった。更には松竹で映画化の話も持ちあがり、私はひとり有頂天になった。
 実は『週刊現代』(7月14日号)に映画監督橋口亮輔さんの「わが人生最高の10冊」という記事があり、私の『異能の画家 小松崎茂』がその10冊の中に入っていた。橋口監督は、『二十才の微熱』(ブルーリボン賞・新人監督賞)、『渚のシンドバッド』(ロッテルダム映画祭グランプリ他)、『ハッシュ!』(キネマ旬報最優秀主演女優賞他)、『ぐるりのこと。』(第32回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞他)などで知られる。『ぐるりのこと。』では木村多江さんに数多くの女優賞を、リリー・フランキーさんには新人賞をもたらした。このすばらしい橋口監督が私の著作を気に入ってくれて、映画化の話を持って来てくれたが、これも足踏み段階となっている。しかし「わが人生最高の10冊」に加えていただいているだけでも、私は著者として大変嬉しく思っている。
 本シリーズの連載では、札幌の方まで読者層をひろげ、言葉では言いつくせぬ程お世話になった東京北区にお住まいの黒須路子さん、相模原市の高原晃さん、その他色々励ましてくださった多くの皆様に、長かったような短かったような14年間のお礼を衷心より申しあげて、筆を擱くことにする。
 昭和っ子の私にとって、原稿を書いている時は、まさに昭和恋々至福の時だった。
 一たび生(しよう)を受け、滅せぬもののあるべきか(幸若舞「敦盛」)。
 長いことほんとうにありがとうございました。   おしまい
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 本シリーズは今回で終了します。根本氏には新企画で書いていただく予定です。タイトル、再開時期などは未定ですが、ご期待ください。(編集部)

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