松戸の文学散歩
小林一茶・前

 江戸末期の俳人・小林一茶(1763年〈宝暦13年〉~1827年〈文政10年〉)を描いた4編の小説・戯曲を紹介したい。一茶を描けば必ず馬橋が登場する。馬橋には一茶を庇護した油屋・大川立砂(りゅうさ)、斗囿(とゆう)の親子がいた。奥信濃・柏原で生まれた一茶は15歳で江戸に奉公に出る。しかし、奉公先に馴染めずに何度も居場所を変えた。一茶にとって、馬橋は初めて安住できる場所だった。俳諧師としての道を志した一茶は、その後も度々馬橋を訪れることになる。
【戸田 照朗】

藤沢周平『一茶』
 藤沢周平は昭和2年(1927)山形県鶴岡市生まれ。山形師範学校(現在の山形大学)を卒業後、中学校教師となるが、肺結核を患い休職。回復後に食品業界の業界紙の記者となる。昭和46年(1971)『溟い海』が第38回オール讀物新人賞を得て作家デビュー。昭和47年(1972)『暗殺の年輪』で、第69回直木賞。『白き瓶』(第20回吉川英治文学賞)、『たそがれ清兵衛』、『蝉しぐれ』などの時代小説で知られる。平成9年(1997)、69歳で亡くなった。
 『一茶』は『別冊文藝春秋』昭和52年(1977)春季号から昭和53年(1978)新春号まで連載された。今回紹介する4作品の中では唯一、一茶の生涯を通して書かれたものだ。この作品を元にまず一茶の一生を振り返りたい。
 物語は15歳の弥太郎(一茶)が父の弥五兵衛に見送られて故郷の奥信濃・柏原を後にするところから始まる。
 弥太郎の実母は2歳の時に亡くなった。8歳の時に父は再婚し継母のさつが来た。義母は几帳面な性格で働き者だったが弥太郎にとっては優しい母ではなかった。2年後に弟の仙六が生まれると義母の態度はますますきつくなった。祖母のかなが、かばってくれたが、その優しい祖母も亡くなった。
 弥太郎は仕事の途中でも、花や虫を見ては物思いにふけるところがあり、テキパキと仕事を進めなければ気の済まない義母とは性分が合わなかった。
 弥太郎の家は本百姓だったが、惣領息子でありながら、江戸に奉公に出されることになったのである。

 しかし、奉公先の仕事も続かず弥太郎は転々と仕事を変えた。やがて消息が途絶え、父の弥五兵衛をやきもきさせた。
 弥太郎は奉公していた筆屋の道楽息子に「三笠付け」という遊びを教えられた。元々は俳句を使った遊びだったのだが、人々の射幸心を煽る賭け事となり、幕府によって禁じられていた。弥太郎は金欲しさに三笠付けの集まりに顔を出していた。その帰りに声をかけてきたのが、露光という俳諧師だった。露光は弥太郎が出ていた三笠付けで点者(てんじゃ)を務めていた。露光は弥太郎が俳諧は初めてだと聞いて驚く。弥太郎の懐には三笠付けで得た一両の金が入っていた。
 露光はご法度の三笠付けに関わっていたが、葛飾派の俳諧師だった。
 俳人には、生業を持つ遊俳(ゆうはい)と、俳諧だけで生活する業俳(ぎょうはい)があった。遊俳は、豪商や武士、寺の住職など裕福な者が多かった。業俳は旅に出て田舎の遊俳のところで歌仙を巻いて(連歌の会を開いて)草鞋銭(謝礼)を得て暮らしていた。
 露光は業俳で、行脚先に馬橋の油屋・大川立砂(りゅうさ)があった。露光は弥太郎の才能に気づき、奉公先として立砂に紹介する。立砂は下総を代表する葛飾派の俳人だった。江戸に出て10年。俳諧というもので初めて人らしい扱いを受けたという気持ちがあった。弥太郎は立砂のところで初めて5年間も仕事が続いた。立砂に俳句を見てもらい、立砂の師匠である今日庵森田元夢に弟子入りした。元夢を招いて歌仙を巻く時には執筆(しゅひつ)役を務めたりした。そして、江戸に戻って俳諧を勉強したいと申し出た。
 元夢は弥太郎を夏目成美に引き合わせた。成美は当代きっての洗練された俳人だった。弥太郎は田舎育ちの自分とは成美は正反対の人だと思う。
 葛飾派は其日庵山口素堂を祖とする。当時、其日庵を継いでいたのが溝口素丸で、其日庵三世を名乗っていた。今日庵森田元夢と二六庵竹阿は其日庵二世長谷川馬光(初代素丸)の弟子で、溝口素丸とは同門だった。
 竹阿は上方に長い旅に出ており、元夢は空き家になっている根岸の二六庵に弥太郎を住まわせることにした。
 弥太郎は芭蕉の奥の細道をたどる旅に出た。奥州では江戸や上方から来る俳諧師を歓待する。旅の間食べるのには困らなかった。
 奥州から帰った弥太郎は上方で竹阿が死んだことを知る。竹阿には弟子がいなかったが、弥太郎は会ったこともない二六庵竹阿の弟子を名乗って西国を旅することを思いつく。歓待を受け、3年は食えるだろう。それだけでなく上方の有名な宗匠たちと付き合いが生まれれば、俳諧師一茶の名前も売れるだろう。由緒ある二六庵も継げるかもしれない。かくして、弥太郎は京都・大坂から四国・九州への旅に出る。
 旅は思いのほか長くなり、7年に及んだ。西国では思った通り歓待され、快適だったが、江戸では一茶の名前はなかなか有名にはならなかった。
 弥太郎が39歳の時に父の弥五兵衛が亡くなった。たまたま柏原に帰っていた弥太郎は父の看病をする。そして父は家や田畑など財産の半分を弥太郎と弟の仙六で半分に分けるように、という遺言状を書いた。弥太郎が子どもの頃に比べ家の田畑は倍になっていた。義母のさつと弟の仙六が納得するはずはなく、遺産相続の話し合いはその後10年以上も続いた。義母と弟の言い分も分からなくはない。しかし、江戸に奉公に出されて苦労するはめになったのは誰のせいなのか、という思いもある。
 弥太郎が長い旅や帰郷する前に必ず行くのが下総の馬橋や流山だ。行けば旅費をもらえる。1日に10里(40キロ)も歩くという弥太郎にとっては、そう遠い距離ではない。馬橋の大川立砂、流山の秋元双樹、田川の一白、布川の馬泉、月船、守谷の鶴老らは嫌な顔ひとつせず、弥太郎に寝る場所と草鞋銭を恵んでくれた。
 立砂はたまたま弥太郎が来ていた日に急死した。弥太郎は葬儀に加わり、初七日の法要にも出た。息子の斗囿に頼まれて立砂を追悼する文を書いた。斗囿はこれからも変わらず来てほしいと言い、お礼を包んでくれた。中にはゆっくり半年ほど食べられるほどのお金が入っていた。斗囿との付き合いはその後も続いた。馬橋のことはこの小説の中で度々出てくる。
 故郷の柏原では遺産相続でもめており、村人の目も気になる。針のむしろのような故郷よりも、馬橋や流山の方が、弥太郎にとって、ふるさとのように温かい場所だった。
 江戸では、夏目成美、建部巣兆、鈴木道彦らが一流の俳人として名をなしていた。成美は札差(商人)、巣兆は絵師、道彦は医者だ。一茶はそれなりに知られる俳諧師になっていたが、まだ一戸を構えるまでにはなっていない。
 弥太郎が数か月の旅から帰ると別人が住んでいることがあった。大家がしびれを切らして他人に貸してしまうのだ。そんな時弥太郎は、下総に行ったり、江戸では成美の世話になった。
 弥太郎が留守番をしていた成美の隠宅で事件が起きた。成美の金がなくなったのだ。弥太郎は他の使用人達とともに疑われ、数日間留め置かれる。
 弥太郎は世話になるかわり、成美の隠宅で下男のような仕事をしていた。
 成美は俳諧の席では一茶(弥太郎)をそれなりに遇してくれたが、この事件で見せたのは、札差・井筒屋の主人としての顔だった。当代きっての俳人である成美と懇意にすることは、自身の立身にも役立つという計算もあった。しかし、この事件以降、うめがたい距離を感じることになる。

 春立や
  四十三年人の飯

 中年を過ぎても地に足のつかない生活を続けることへの不安が弥太郎の心を締め付けた。若い頃から白髪が多く、年齢以上に老けて見られたが、この頃は歯も抜け落ちて、大事にしていた奥歯も抜けたことで、さらに老いを感じた。
 馬橋の立砂と引き合わせてくれた露光も旅の空の下、行き倒れて亡くなった。自分も同じ運命なのかと不安になる。
 江戸での栄達の夢が諦めきれず、迷いに迷ったが、遺産相続はほぼ弥太郎の思い通りに解決し、故郷の柏原に帰ることになった。もう下総の馬橋や流山には頼ることは難しくなるだろう。弥太郎は信濃に帰るたびに門人を増やしていった。
 50歳を過ぎて故郷に帰り、叔父の世話で24歳も下の新妻・菊を迎えた。菊は明るい性格で弥太郎と気が合ったが、37歳の若さで亡くなった。9年の短い結婚生活の間に4人の子をもうけたが、いずれも育たなかった。子を欲する弥太郎は武家出身の雪と再婚するが、2か月で離縁。諦めきれず、64歳で32歳のやをと3度目の結婚をした。
 しかし、柏原は大火に見舞われ弥太郎も長い相続争いの中で得た家を失った。残された土蔵の中で(おそらく)3度目の中気(脳卒中)の発作のため、65歳の人生を終えた。妻のやをの腹の中には新しい命が宿っていた。

田辺聖子『ひねくれ一茶』
 田辺聖子は昭和3年(1928)大阪市生まれ。昭和39年(1964)『感傷旅行』で第50回芥川賞。『ひねくれ一茶』で平成5年(1993)第27回吉川英治文学賞。ほかに映画化された『ジョゼと虎と魚たち』(1984年)などがある。令和元年(2019)に91歳で亡くなった。
 『ひねくれ一茶』は『小説現代』平成2年(1990)2月1日発行号から2年間連載された。41歳から65歳で亡くなるまでの一茶の後半生を描いている。
 この時点で馬橋の大川立砂は亡くなっている。一茶は息子の斗囿のもとに通い、萬満寺の立砂の墓に参る。そして、流山の秋元双樹を訪ねる。まとまった記述は少ないが、馬橋のことが度々出てくる。
 一茶が詠んだ数多くの句を登場させ、それを推進力にして物語が進んでいくところがこの作品の特徴だ。
 また、著者が一茶を包み込むように優しく寄り添っているという印象を受ける。

われときて
 遊べや親のない雀

雀の子
 そこのけそこのけ
     お馬が通る

痩せ蛙 負けるな一茶
 これにあり

 こんな優しい句を作る一茶だが、細かく記した日記には、自分につれなく当たった義理の近親者を口を極めて罵倒する文言が書き連ねられている。
 この一茶の二面性をどう理解すればいいのか。
 「傲慢で、そのくせ自信ない。吐く息吸う息が五七五になるくせに、それがゆるぎなき信念とならず、佳句を唇からころばせつつ、次の行に、駄句を並べて、迷いに迷う一茶。……いつから一茶は、江戸で宗匠(そうしょう)となって身を立てる夢を失ったのであろう。故郷へ戻ったのは、田舎宗匠の句が美しく位(くらい)たかいことを、江戸の奴らに見せてやらあ、という、自信と覇気あればこそ、だったのに。……一茶の思いをあれか、これか、と私は、柏原の澄んだ空気の中で考えつづけ、不意に思い到ったのは、一茶 は私だ。という発見だった。そして、何となく、一茶が書けそうな、自信が湧いてきたのであった」(原文は改行あり)と著者は書いている。
 41歳の一茶から書き始めたのには理由があると思う。この頃から一茶の句が変わってくるのだ。いつまでも自分を認めてくれない江戸や、裕福な遊俳、貧しさや、故郷への複雑な思い。様々な思いが心に溜まって、それを吐き出すように句を作る。蕉風を重んじる葛飾派の決まりごとも煩わしく、独自の道を歩き始める。
 小動物が登場する一茶の句は優しく、温かく、切ない。一茶は動物の命も人間の命も命に変わりはないと思っていた。
 藤沢周平の小説にも出てきた成美の隠宅での盗難事件。その前日、一茶は使用人の老人が可愛がっていた老犬が死んで、老人とともに犬を庭に埋めるのを手伝う。他の作品には出てこない場面で、あるいは著者の創作かもしれないが、動物の命も大切に思う一茶の気持ちが出ていて、印象的な場面だ。
 また江戸での一瓢、耕舜といった「親友」との交流も描かれる。
 一茶は下総、常陸のほかに、上総の木更津と富津もよく訪ねた。富津には一茶の唯一の女弟子・花嬌がいる。一茶は花嬌に密かに想いを寄せているが、花嬌は土地の大富豪の未亡人。とても釣り合わない。だが一茶は花嬌のことを、どうこうしようというのではない。一茶にとって花嬌の存在自体が心の支えとなっていた。その花嬌も一茶が柏原に移り住む前に急逝してしまう。
 柏原に移り住んだ後、結婚した菊のことを一茶は観音様のようだと思う。
 花嬌にしても、菊にしても、一茶が求めているものは、幼い時に死に別れた生母の面影のようだ。
 田辺聖子が描く一茶は温かい。
 ※参考文献=「まつど文学散歩」(宮田正宏・編)

一茶が立砂の墓参りに訪れた萬満寺

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