こうして江戸川は生まれた

 松戸市民にとって江戸川は馴染みの深い川だ。現在の江戸川は関宿で利根川から別れ東京湾に流れ込んでいる。さらに市川で江戸川放水路と旧江戸川に分かれる。江戸川放水路は真っ直ぐに東京湾に注ぎ込むが、旧江戸川は西に東京方面に向かい、東京ディズニーランドと葛西臨海公園の間を通って東京湾に注ぎ込む。一方、本流である利根川は銚子で太平洋に注ぎ込む。行政区的には、利根川は茨城県と千葉県との県境に、江戸川は千葉県と埼玉県・東京都の境界になっている。これが私たちが知る今の利根川と江戸川の姿だが、太古の昔からその流れは幾度も変わり、江戸川においては江戸時代に関宿~野田間が掘削されたという人工の運河である。

【戸田 照朗】

江戸川前史 利根川の変遷

 本文と図は主に平成15年に松戸市立博物館開館10周年記念として開催された「特別展 川の道 江戸川」の図録(解説部分)と、同展の期間中に開催された講演の記録をまとめた「江戸川の社会史」(同成社)の柴田徹氏の論文「利根川の流路の変遷」、「図録 江戸川誕生物語」(野田市郷土博物館)を参考に書いた。
 はじめに、江戸川の本流である利根川について見てみたい。
 利根川は現在の流れよりもずっと西側を流れているということに注目していただきたい。
 この流れがどのようにして今のようになったのだろうか。

約2万年前

 今から約2万年前は氷期で、現在よりも気温が6、7度低かった。北極と南極に大規模な氷床が発達しており、北半球の一番厚いところでは4000メートルの氷が覆っていた。これは、富士山よりも厚いということになる。水分は氷ついて循環しないので、海面が100メートルから140メートル下がった。
 東京湾はなく、陸地が続いており、谷底を川が流れていた。今の東京湾がある場所には、利根川と渡良瀬川が合流した古東京川という川が流れていた。古東京川が流れていた谷は深く、東京湾となった今も大型船舶の航行に役立っているという。
 利根川と渡良瀬川は松戸の辺りで合流して古東京川となっている。どちらの川も何段かの段丘を両側に持つ台地の間を流れる川といった風景だったらしい。
 規模や水量から考えると利根川が本流で渡良瀬川が支流ということになるはずだが、松戸の合流点を見ると、渡良瀬川が真っ直ぐ南に流れ、西から来た利根川が横からくっつくという形をしている。この形からすると渡良瀬川が本流で利根川が支流のように見える。
 柴田徹氏は前述の本の中で、これには200万年前から続く「関東造盆地運動」が関係しているのではないかと推測している。
 松戸市付近では1年間に平均0・5ミリ程度土地が沈んでいるという。この運動は東京の方に行くと緩やかになり、年間0・3~0・2ミリ程度になる。1年にわずか0・2ミリ差といっても、1万年で2メートル、10万年で20メートルという差になる。
 つまり、東京から見ると、松戸に向けて緩やかに土地が低くなっていくことになる。
 この作用によって、利根川の水は松戸に向けて流れるようになり、支流のように横か
ら合流したのではないかというのである。
 上野の山のローム層の下には礫(れき)層があり、石の種類を調べたところ、約5万年前は利根川は上野の山周辺を、真っ直ぐ南に流れていたという。

約6000年前

 約6000年前の縄文時代には、逆に今よりも2~3度気温が高かった。両極の氷が溶け、現在に比べ海面が2~3メートル上がった。海水が内陸まで流れ込み、西の利根川側は埼玉県川越市辺り、東の渡良瀬川側は埼玉県栗橋町辺りが海岸線だった。松戸の前には奥東京湾が広がり、海岸線は複雑なリアス式海岸だった。第852号(昨年8月23日発行)で書いた「縄文海進」である。
 この図は1926年に東木竜七さんという方が縄文人が残した貝塚の分布から復元した図がもとになっているという。

約2000年前

 海岸線が現在のものに近くなり、奥東京湾は縮小。松戸から海岸線は遠くなり、目の前に利根川が流れている。
 自然堤防(氾濫原において河川の流路に沿って形成される微高地。過去の自然堤防の分布から過去の流路を推測することが可能)の分布によって復元すると、利根川は真っ直ぐ南に流れず、草加から松戸に向かって流れ、松戸付近から南に流れて海に注いでいる。
 熊谷付近では、荒川に押されて台地側に押し付けられるような形になっている。川の傾斜が緩いところでは、幾ずじにもなって蛇行していたと思われる。

約1500年前

 約2000年前から約1500年前(古墳時代)の間に、利根川は荒川との合流点付近で大宮台地北部を行田市のところで乗り越え、東の渡良瀬川の流路へと流れを変えた。荒川も利根川との合流点が東へと移った。台地の上を利根川は何本にも分流して流れ、さらに渡良瀬川が作った沖積低地(川が比較的最近埋め立てて作った平らな土地)の中を蛇行しながら流れた。渡良瀬川の10倍以上もの水量がある利根川の水が流れ込んだために、この一帯は沼地と化した。
 利根川の水が大宮台地を超えたのは、従来は新たな造盆地運動のためだと考えられてきたが、柴田徹氏は、むしろ荒川が運搬し堆積した大量の土砂による、利根川の河床の上昇に主原因があったと考えているという。

約600年前

 約600年前の中世の利根川は幾筋もの大きな自然堤防を作り、何本にも分流して流れていた。現在の江戸川中流部分も、その分流した流れのひとつであった。春日部市付近には特に大規模な自然堤防が形成され、その下流域は、多くの池沼が分布する広大な湿地帯となっていた。
 そして、荒川は、流路を次第に南の方へと変化させていった。この頃は、行田市の南を通り、現在の綾瀬川の流路を流れ葛飾区猿ヶ又付近で利根川に合流していた。
 大宮台地と武蔵野台地に挟まれた沖積低地では、大宮台地沿いに、かつての利根川である毛長川(けなががわ)が流れ、武蔵野台地沿いには入間川が蛇行しつつ流れ、墨田区鐘淵(かねがふち)付近で利根川の分流である古隅田川に合流していた。
 隅田川は利根川が河口付近で何本にも別れた一本と入間川が合流した川ということになる。

江戸川の開削

 ここまで見てきたように、江戸時代が始まる前の中世までは、松戸市の前を流れる大河は利根川本流であった。
 特に松戸から河口までの下流は「太日川(ふとゐがわ)」と呼ばれていたようだ。平安時代に書かれた『更級日記』には、「太日川というが上の瀬、まつさとの渡りの津に泊まりて夜一夜、舟にてかつがつ物などを渡す」という一文が出てくる。「まつさと」というのが、松戸のことで、松戸の地名が表れた最も古い文章としても知られる。
 『更級日記』は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)が、50歳を過ぎてから約40年間を回想して書いたもの。上総国の国府に赴任していた父菅原孝標が、寛仁4年(1020)京都に帰国することになり、13歳の娘が父について帰国する様子から書き始めている。この文章はその道中、太日川を松戸あたりから渡った様子が書かれている。
 松戸から下流は昔からあった自然な流れなのだが、関宿から野田までの18キロは江戸時代に近隣の農民が鍬や鋤、もっこを使って人力で下総台地を開削したものである。
 千葉県野田市東金野井と埼玉県春日部市西金野井は江戸時代以前は同じ「金野井村」であったものが、江戸川の開削によって川の東西に別れたのだという。
 しかし、これだけの大事業なのに幕府の正史『徳川実紀』などには工事の記録がなく、開削の時期や目的などもはっきりしていない。
 ただ、寛永10年(1633)の絵図(日本六十余州切絵図下総国)には江戸川が描かれていないが、正保元年(1644)の絵図(日本分国図 下総国)には江戸川が描かれているので、1633年から1644年の間に開削されたものと思われる。
 幕府の記録にはないが、地元に残る古文書の中に江戸川開削について記されたものがいくつかある。
 江戸川開削について書かれた最古の史料は明暦3年(1657)の「小流寺縁起」である。
 小流寺は埼玉県春日部市西宝珠花にある寺で、小島庄右衛門正重によって建てられた。小島は当時庄内領と呼ばれたこの地域を支配していた幕府代官・伊那忠治の家臣だった。伊那はこの地域が洪水に苦しんでいたことから、河川改修工事を立案し、時の将軍・徳川家光の裁可を得て、寛永17年から工事に関する調査が行われた。工事はそれから十有余年を超えて完成したという。しかし、寛永17年から10年以上かかったとすると1650年頃になる。前述の正保元年(1644)の絵図の内容と矛盾する。
 江戸時代終わり頃の学者・船橋随庵(ずいあん)は寛永12年(1635)から10年間かけて工事が完成したという説を説いている。
 江戸時代から続く野田の醤油醸造家・茂木佐平治家は江戸川縁に醤油蔵を持っていた。この蔵が堤防の内側にあることから、川の流れを阻害していると近隣の村々から訴えられ、訴訟になった。そこで、茂木家側は昔からの川幅は変わっていないので問題ないということを主張するために、江戸川を彫った時の記録を探し出して提出した。
 その記録によると、寛永17年(1640)から3年かけて江戸川を掘ったということが書かれている。
 岩名村(野田市岩名)の記録には寛永18年から3年間で工事が完成したとある。
 しかし、これほどの大工事を、しかも手作業で、わずか3年の間にできたのかは疑問が残るという。

利根川東遷説

 江戸川が開削されたのと同じ頃に、江戸幕府の事業として大土木事業をやり、利根川の流れを徐々に東に移して、今のように銚子から太平洋に流れる川にしたという説がある。
 今の利根川の流れはもともと常陸川・鬼怒川・小見川などの流れが集まって銚子の方に流れていた。それを主に3段階の工事によって、最終的に利根川本流の流れを常陸川水系の方につなげたというのである。
 戦前は有力視されていたが、最近の研究では疑問も持たれているという。この説では利根川水系と常陸川水系が全く接続していないという前提に立っているが、もともとこの2つの水系はつながっていたと考える人もいるという。
 利根川東遷説では、事業の目的として①江戸の水害予防、②水運、③古利根川沿岸の新田開発、④東北地方に対する防衛、が考えられているが、最近では②の水運を挙げる意見が多いという。

現在の江戸川から松戸市街地を望む

江戸川を横断する国道16号線の千葉県側の横断歩道には「野田市東金野井」とあり(上)、埼玉県側には「西金野井」とある(下)

江戸川の開削について書かれた「小流寺縁起」が伝わる小流寺

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