松戸周辺の城跡を訪ねて㉓

 市川市曽谷と若宮にある城跡を訪ねた。いずれも日蓮宗の開祖、日蓮聖人に縁(ゆかり)の深い城跡と寺院である。【戸田 照朗】

曽谷城跡

 曽谷城跡は、市川市曽谷の台地上にある。城の全体像は不明だが、「曽谷殿屋敷」や「曽谷殿館」と呼ばれた一帯には石井吉一さん宅があり、敷地内の台地縁辺に二重土塁と堀の跡が残されている。土塁の端には小さな祠が建っていた。台地中腹には平らな場所があり、市川市が「曽谷3丁目緑地(曽谷城跡地)」として整備している。ここは、腰曲輪跡の可能性があるが、削られて原形を留めていないという。
 曽谷城は鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地を本拠とした曽谷氏の居城だったと言われる。曽谷氏は千葉氏の一族。前回紹介した国分城の城主・国分五郎胤通(千葉常胤の五男)の後裔の胤鎮(たねしず)が同族の重胤(しげたね)に曽谷村の近在三千町を与えたのが始まりだという。重胤の孫である曽谷教信は、日蓮聖人に帰依し、文応元年(1260)曽谷城内の屋敷跡に安国寺を建てて、ここに住んだ。曽谷教信は法蓮日礼(ほうれんにちらい)という法号を給わった。安国寺の開山は日蓮上人。開基は曽谷教信とその妻・蓮華尼(れんげあま)である。寺号は日蓮が著した『立正安国論』から選ばれたという。安国寺は石井さんの家からも見える位置にある。
 教信の父・大野正清は日蓮の生母妙蓮の弟で、日蓮と教信は従兄弟だったとも言われる。また、弘安4年(1281)の蒙古襲来(元寇)の際には、教信が九州に出陣せねばならないと聞いて、日蓮が大変心配したという。結局、教信の出陣はなかった。
 その後、末裔の曽谷胤貞は鎌倉時代末の動乱の際に畿内・九州へ足利尊氏とともに出陣し、多々良浜(たたらはま)の合戦などで活躍した。しかし、建武3年(1336)三河国の高橋合戦で討ち死にし、この時に曽谷城も落城したという(没年は建武元年とする説、病没だったとする説もある)。胤貞の子(養子とも)胤泰は肥前国小城郡内の所領を受け継いで、九州千葉氏として分立し、八幡庄や千田庄などの下総国内の所領は、同じく胤貞の子の胤継が継承し、千田千葉氏の祖となった。
 千葉一族は氏神として軍神でもある北辰(妙見)を信仰してきた。妙見は仏教では菩薩で、安国寺境内には鎌倉時代の仏師運慶作といわれる妙見大菩薩を祀る妙見堂がある。文永元年(1264)に日蓮聖人によって開眼供養がいとなまれた。このお堂で日蓮が三度説法を行い、その様子は静岡の玉沢妙法華寺蔵の日蓮聖人説法図に描かれている。お堂は後に改修されているが、丸柱は当時のもので、「日蓮柱」と称して、多くの信者が手に触れて無病息災・開運を祈願してきた。
 妙見堂の隣には鬼子母神堂がある。文永元年に安房の小松原で日蓮が東条景信に襲撃された小松原法難の際に鬼形の鬼子母神が現れて難を逃れたことにちなんで、日蓮聖人が刻んだ鬼子母神像が安置されている。一木二体の鬼子母神像は一体が中山法華経寺に、一体が安国寺鬼子母神堂に安置されている。
 本堂には建治元年(1275)に教信が身延山に入った日蓮聖人を追慕して自ら刻んだといわれる日蓮聖人尊像が安置されている。背銘に「佛所護念法蓮作之(ぶっしょごねんほうれんこれをつくる)」とある。教信の嫡子・道宗(どうすう)が難病にかかった時に、この像に祈願して治癒したことから、寿命を延ばす霊験があるとされ、「延寿のお祖師さま」「延寿日蓮御尊像」と称されるようになった。
 また同寺には寺宝として、ほかに日蓮聖人御真筆断簡、教信愛用の鞍・鎧・鼓がある。
 曽谷氏は松戸市の平賀本土寺とも縁が深い。教信の娘は千葉貞胤の室となって芝崎と呼ばれ、平賀の鼻和地蔵堂を再興した後、建治3年(1277)に日蓮の弟子の日朗を迎えて本土寺を開創。教信が開基となった。安国寺と本土寺の山号はともに「長谷山(ちょうこくさん)」である。

若宮館跡

 市川市若宮の若宮館跡は、千葉頼胤(よりたね)の家臣・富木常忍(ときじょうにん)の館があった場所で、現在は奥之院がある。奥之院を囲むように方形の土塁の跡が残っている。
 常忍は幕府のある鎌倉と若宮との間を船で往復していたが、鎌倉で布教をしていた日蓮聖人と同船して、その教えに帰依した。
 文応元年(1260)日蓮は鎌倉の松葉ヶ谷で焼き討ちにあい、常忍を頼って若宮を訪れた。常忍は館の中に法華堂を建てて、日蓮に説法を願った。また、前述の文永元年(1264)の小松原法難の際にも、日蓮は若宮に身を寄せた。説法は百回にも及び、この地が大聖人「初転法輪の旧跡」と言われている。これにより日蓮宗に帰依した人の中に前述の曽谷教信や大田乗明(おおたじょうみょう)がいた。
 弘安5年(1282)日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と名乗り、法華堂を改めて法華寺とした。永仁7年(1299)に日常が亡くなると、大田乗明の子・日高が跡を継いで二代目貫主となった。日高は父の中山館を本妙寺として、後に法華寺と統一して、法華経寺とした。もとの法華寺は奥之院と称されるようになった。
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 ※参考文献=『改訂新版 松戸の歴史案内』(松下邦夫)、『東葛の中世城郭』(千野原靖方・崙書房出版)、『曽谷 安国寺』(石川教張・編、安国寺)、「安国寺由来」(村田勝、昭和学院新聞 わが郷土より)、「日蓮大聖人百座説法霊跡 正中山 奥之院」、そのほか現地に掲示されていた市川市教育委員会の説明板を参考にしました。

曽谷教信が刻んだといわれる日蓮聖人尊像(延寿のお祖師さま・安国寺提供)

日蓮聖人が刻んだといわれる鬼子母神像(安国寺提供)

曽谷教信愛用の鼓・鎧・鞍

日蓮聖人が説法した安国寺妙見堂

安国寺鬼子母神堂

安国寺本堂

石井吉一さん宅の敷地内にある二重土塁と堀

二重土塁の上に建つ小さな祠

奥之院を囲む土塁跡の一部

若宮の奥之院境内

水子地蔵の背後にも土塁跡が見える

奥之院入り口付近の土塁跡

奥之院境内を方形の土塁跡が囲んでいる

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