藤田嗣治、板倉鼎の子孫が対面
聖徳博物館の「フジタとイタクラ」展

板倉鼎の絵の前で。神崎眞子さん(右)と藤田嗣隆さん

 1月16日から3月16日まで聖徳大学の聖徳博物館で開催された展覧会「フジタとイタクラ エコール・ド・パリの画家、藤田嗣治(つぐはる)と板倉鼎(かなえ)・須美子」。開催期間中の6日、藤田嗣治と板倉鼎の子孫、藤田嗣隆さん(藤田嗣治の姪の長男)と神崎眞子(みちこ)さん(板倉鼎の姪)が来訪し対面。この日の対面は、一般社団法人板倉鼎・須美子の画業を伝える会会長の水谷嘉弘さんの高校の同窓会の縁から企画したという。【戸田 照朗】

 

 藤田嗣治はエコール・ド・パリ(1920年代を中心にパリで生活し、特定の芸術運動や流派に属さず、独自の芸術を開花させていった作家)を代表する画家で、1920年代には乳白色の下地を用いた独自の技法で女性や猫を描いた作品が脚光を浴び、華々しい成功を収めた。板倉鼎は東京美術学校(現東京藝術大学)の15年後輩にあたる。板倉鼎は須美子と結婚後、二人でパリに留学したが、鼎が28歳の若さで急逝したために、志半ばで須美子も帰国することになった。須美子も帰国後に25歳の若さで亡くなっている。板倉夫妻はその画業の評価を待たずに夭折してしまったが、近年では松戸市教育委員会と目黒区美術館が開催した回顧展により、再評価が進んでいるという。

藤田嗣治の絵の前で。右から神崎眞子さん、藤田嗣隆さん、水谷嘉弘さん

 短い留学期間だったが、板倉夫妻にとってパリで画家としての地位を築いていた藤田嗣治は目標とすべき存在であり、1929年4月に藤田を中心にパリの日本人画家たちが結集した「仏蘭西日本美術家協会」第1回展には板倉夫妻も参加。鼎は松戸の実家にあてた書簡の中で「今度の日本人の展覧会でスミ子が大変な評ばんで藤田さんなども人を前につれてってはほめてたそうです」と書き、須美子が出品した独特な魅力のある作品を藤田が展覧会場で絶賛したことを喜んでいる。
 展覧会「フジタとイタクラ」では聖徳大学が所蔵する藤田の作品7点、松戸市教育委員会等が所蔵する板倉夫妻の作品10点のほか、藤田と鼎が写った仏蘭西日本美術家協会の写真などが展示された。
 新大久保に在住の藤田嗣隆さんは会社役員を辞した後に大学に行き、美術史を専攻。学芸員の資格をとった。卒論では大叔父の藤田嗣治のことを書いたという。「あの時代に本当に多彩な画家がよくぞ集まっていたなあと思います。1929年は藤田がパリを捨てる年ですよね。その時代に一堂に会せたのは本当によかったと思います。板倉さんの絵は鼎さんも奥さんもオリジナリティがある。色がきれいだし、ベタベタ塗ってないし、本当にいい絵をお描きになっていたと思います。ただ、若くしてお亡くなりになったから、よけいに凝縮したものがギュウと噴出したんだろうなあと思いました。神崎さんには初めてお会いしましたが、昔から知っているようです」と話していた。

 松戸に在住の神崎眞子さんは「叔父の絵を久しぶりに見ました。須美子さんが座っている絵は、私

展示物を見る神崎眞子さん(左)と藤田嗣隆さん

が小学生の時から中部小学校にありました。叔父も中部小学校に通っていましたので、叔父が亡くなった時に寄贈したものです。長年学校に置いてあり、絵が真っ白になってしまったそうですが、市の方で修復していただいて、元の姿が見られるようになりました。懐かしいなあと思われる方もいるのではないかと思います。母(鼎の妹の弘子さん。現在も109歳で健在)も喜んでおりました。当時叔父からはパリから毎日手紙が来ていたそうです。藤田嗣治さんは、写真に横顔で写っていることが多いんですが、きょう嗣隆さんの横顔を拝見してそっくりだと思いました」と話していた。

「藤田嗣治」展

 聖徳博物館では4月2日から7月27日まで特別展覧会聖徳大学収蔵名品展「藤田嗣治」を開催する。時間は午前9時から午後5時まで。日曜祝日は休館。その他、学事日程などにより休館になることがある。観覧は無料。
 戦後日本で描かれた大作「優美神」をはじめ、約15点を関連資料とともに観覧する。

 藤田嗣治…1886(明治19)年、東京市牛込区(現在の飯田橋近く)の医者の家に4人兄弟の末子として生まれる。1910(明治43)年、東京美術学校(現東京藝術大学)を卒業。1913年(大正2)年、フランスに渡り、モディリアーニらとともにエコール・ド・パリの代表的な画家として活躍した。とりわけ、裸婦に代表される「乳白色の肌」の優美な美しさは、多くの人の心をとらえ、藤田は一躍パリの寵児となった。
 1933(昭和8)年に帰国。二科会会員や帝国芸術院会員として日本洋画壇の中心的役割を果たした。1949(昭和24)年、再びフランスに渡り、二度と日本に戻ることはなかった。1955(昭和30)年、フランス国籍を取得。1958(昭和33)年、ベルギー王室アカデミー会員に推挙される。翌年カトリックの洗礼を受けて、レオナール・フジタと改名。1966(昭和41)年、フランスのランスのノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂のステンドグラスやフレスコ壁画が完成。1968(昭和43)年1月29日、スイス・チューリッヒの病院で逝去。享年81。嗣治は生涯で5回結婚したが、子どもはもうけなかった。
 嗣治の父・藤田嗣章(つぐあきら、1854~1941)は日清・日露戦争で活躍し、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監にまで昇り詰めた。兄の嗣雄(つぐお、嗣隆さんの祖父)は法制学者・上智大学教授で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。従兄弟に劇作家の小山内薫(1881~1928)、甥に舞踊評論家の蘆原英了(あしはらえいりょう、1907~1981)、建築家の蘆原義信(よしのぶ)がいる。

 板倉鼎・須美子…板倉鼎は1901(明治34)年、埼玉県北葛飾郡旭村(現在の吉川町)に生まれ、幼児期に松戸に転居した。父は東葛飾郡松戸町一丁目(現・松戸市本町)で内科医を営んでいた。
 1919(大正8)年、18歳で東京美術学校西洋画科(現東京藝術大学美術学部)に入学。20歳で第3回帝国美術院展(帝展)に「静物」が初入選し、このころから画業に反対していた父も軟化。
 1925(大正14)年、ロシア文学者・昇曙夢(のぼりしょむ・直隆)の長女・須美子と結婚。須美子は17歳5か月だった。
 翌年2月、念願かなって、フランス留学の旅へ。須美子との新婚旅行をかねた旅で、途中、ハワイ、ニューヨークを経由してパリに到着、ロジェ・ビシエールに師事した。しかし、3年後の1929(昭和4)年9月29日、歯槽膿漏による敗血症を発症し、急逝した。享年28。同年には、6月に生まれたばかりの次女二三(ふみ)が死去。須美子はパリに着いた後に生まれた長女一(かず)を連れて帰国するが、1月に一も死去した。
 須美子は、パリ時代に鼎のモデルを務めるかたわら自らも絵筆を執るようになり、鼎とともに美術展に出品している。須美子も1934(昭和9)年に25歳の若さで、肺結核により逝去した。
 鼎は、古ヶ崎の水郷地帯がお気に入りの写生場所で、妹の弘子さんを連れてよく出かけたという。当時、古ヶ崎の坂川には多くの釣り人が訪れていた。鼎の父の友人と須美子の叔父が釣りの穴場で知り合ったことから、二人の縁談話が起こり、話はとんとん拍子に進んだという。
 帝国ホテルで行われた結婚式では、与謝野鉄幹・晶子夫妻が媒酌をした。須美子が卒業した神田駿河台の文化学院で与謝野夫妻が教鞭を執っていたこと、鼎が写生先の南房総の保田で知り合った歌人の原阿佐緒と与謝野晶子が交友があったという縁によるものだという。
 ※参考文献=「板倉鼎 その芸術と生涯」(板倉弘子編著)、「企画展 松戸の美術100年史」(松戸市教育委員会)

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