本よみ松よみ堂
平野啓一郎 著 『ある男』

人の存在にとって「名前」や「過去」はどんな意味を持つのか

ある男

平野 啓一郎 著

文藝春秋 1600円(税別)

 この小説は短い序章から始まる。著者自身と思われる小説家がバーで飲んでいて、城戸章良(あきら)という弁護士と知り合う。二人とも1975年生まれ。しかし、城戸は最初別の名前と経歴を語っていた。著者は城戸に興味を持ち、彼を主人公に小説を書いた。弁護士としての守秘義務があり、城戸があいまいにしか話さなかったことも取材し、想像をふくらませ、虚構化したという。本当にあった話なのか、それともこの序章自体がフィクションなのかは分からないが、私は興味をそそられて、本編に入っていった。
 この物語は、城戸が離婚調停を担当した里枝という女性が再婚した夫の死から始まる。里枝は横浜の大学を卒業後、建築家の卵と結婚して二人の男の子にも恵まれた。しかし、幼い弟の遼が2歳で脳腫瘍と診断され、治療のすべなく、半年後に亡くなった。遼の死をきっかけに、夫婦の間に亀裂が生まれ、離婚へ。離婚調停は揉めに揉めたが、里枝は兄の悠人(ゆうと)の親権を得て、実家のある宮崎県の小さな町に帰ってきた。父の死後、実家の文房具店を切り盛りしていた時に、画材を買いに来たのが二番目の夫となる谷口大祐だった。大祐は上手くはないが優しい風景画を書いていた。大祐は35歳の時にふらっと町に現れ、林業で生計を立てていた。真面目な働きぶりで社長からも信頼されていた。里枝との結婚生活は約4年続き、花という娘も生まれ、一家は平凡だが幸せな暮らしを送っていた。ところが、その生活も伐採時の事故で大祐が亡くなったことで、突然終りを告げた。息子の悠人も実の父である前夫よりも大祐になついており、弟、祖父、新しい父と続けて愛する人を失い、深く傷ついていた。
 城戸は離婚調停から8年たって、久しぶりに宮崎の里枝から連絡を受けた。それによると、死んだ夫は「谷口大祐」とは別人だということが判明したという。ただ偽名を使っていたというのではなく、「谷口大祐」という人物は戸籍上存在しており、夫はその「谷口大祐」になりすまして、「谷口大祐」の過去を自分の過去のように話していた。また、本物の「谷口大祐」も行方不明になっているという。里枝が愛した夫はいったい誰だったのか。なぜ、そんな嘘をつく必要があったのか。里枝は夫の過去にも同情し、共感していた。しかし、その過去は別の人物のものだった。
 2年前に読んだ『マチネの終わりに』は、心の奥の奥の深いところで惹かれあう男女の恋愛を描いた作品だった。
 今回の作品は、「名前」「過去(その人物の歴史)」といった、私たちの存在を構成する要素とはなんだろう、と考えさせる作品のように思う。
 城戸は「ある男」と「谷口大祐」の背中を追うことになる。徐々にわかってきたのは、名前を変えて生きる人たちの不可解な実態だった。城戸は薄謝で里枝から仕事を引き受け〝探偵ごっこ〟にのめり込んでいく。そこには城戸自身の出自にまつわる理由もあった。城戸自身が「自分とは何なのか」という問いかけを、無意識にだが、続けているのだ。
 奥深いテーマに加えて、サスペンス的な要素もあり、最後まで引き込まれて読むことができた。
 【奥森 広治】

あわせて読みたい