昭和から平成へ【70】
好きになれない5月を過ぎて、物思いにふける梅雨

 

昭和から平成へ 第Ⅲ部 夢見るころを過ぎても(70)

昭和の森博物館 理事

根本圭助

「花の中で」筆者・画

ひそかなる恋そのままに梅雨に入る(桂信子)
 梅雨入りを前にして、夏日のような強い暑さの日が続いた。そして梅雨に入り、今度は早くも発生した台風のせいかもしれないが、ぐーんと気温が下がり、寒い|といっていい程の日が続いている。何しろ前日と気温差が10度以上違うというのだから、体調管理もなかなか難しい。特に私のようなご老体にとっては、不順な天候に振り回されている感は否めない。
 こうした天候不順の中で、いくつかの訃報に接した。ポロリポロリと古くからの友人、知人が姿を消してゆく。
 もう何回も書いているが、私は5月という月がどうしても好きになれない。
 家内をはじめ、親友が3人、私を溺愛してくれた祖父をはじめ、友人、知人、多くの人が5月に彼岸に渡っている。
 本来5月という月は、桜も終わり、新緑が目にまばゆく、一年の中でもいちばん楽しい季節のはずだが、偶然とはいえ、私にとっては掛け替えのない多くの人を失っている。
作家で演出家の久世光彦さんは、5月という月を礼賛して「5月には何だか人が死なないような気がする|」と何かに書いていたが、私にとっては、この青葉若葉の季節が、たまらなく切なく悲しい月なのである。

「学校がえり」筆者・画

 普段は淋しいとか、悲しいとかいう思いはおよそ無縁に忙しぶって過ごしてきたが、5月になると、亡くなった人達をついつい思い出して、柄にもなくセンチメンタルな物思いにふけることが多い。
 わが恋は失せぬ新樹の夜の雨(石塚友二)
 そんな物思いの中で、たった一度の人生、いくつになっても人恋う心だけは持ち続けていたいと分不相応を承知で、半ば開き直って、そう思う時もあるが、相手の年齢、自分の年齢、仮に恋心をくんで気持ちを添わせてくれたところで、どれだけの残り時間があるのか。そう考えると身がすくむ思いがする。亡くなった『風の盆恋歌』の作者・高橋治さんの著作にそんなことが書いてあったのを、ふと思い出し、久々に書棚から取り出したりしてみた。
 高橋さんの書いた文には、「絶恋どころか、次第に、無恋の境に入って来ている。この空白は、一体なんとしたものだろうか」という一節もあった。
 季節は異なるが、越中八尾の風の盆の夜に高橋さんと出会い、街中踊りの姿を追いながら話し合った夜更けの語らいがたまらなく懐かしい。その高橋治さんも今はいない。
 今年の5月は友人2人の訃報を除いて、ほぼ何事もなく過ぎた。外はしとしと今夜も雨の音。つい話もしめっぽくなる。
 話題を変えよう。先日所用で浅草へ出かけた折、久々に観音様から六区の辺りをひとまわり散策した。杖を頼りのよちよち歩きである。

「雨の中で」(立葵)筆者・写

 戦後浅草が恋しくてよく出かけたが、その頃は小さな仮本堂の観音様だった。お堂は小さかったが、戦争からの解放感もあり、私にとって、この小さな仮本堂にどれだけ慰められたか測り知れない。
 観音様の隣にあって戦災を免れた淡島堂が老朽化したので、この仮本堂が新しい堂となって、今は境内の隅に鎮座ましましている。
 遠い昔、祖母と観音様へお詣りした後は、必ずといっていい程、本堂の向かって左側の階段を降りて、淡島堂へお詣りした。
 今は都の文化財になったとかで渡ることは禁じられている石の橋を渡り、淡島様へお詣りした。
 池には供養のため放された亀が沢山群れていたが、私はこの淡島様が懐かしく、ちょうど写真のように、今の本堂の工事中に淡島様へお詣りし、恐怖(?)の体験をしたことが、急に思い出された。
 その日、仮本堂へお詣りした後、裏手へまわって工事中の本堂を背に淡島様へお詣りしたが、ふと気づくと、手を合わせている私の左右にぴたりと怪しげな女が小判鮫のようにへばりつき、真後ろにも同様の女…、私はこの3人の女から逃れるのに大変な思いをした。
 先日知り合いの浅草寺の寺男にその話をしたら、「今でもいるんだよ」と笑いながら、色々な話を聞かせてくれた。あの時は本当に恐ろしかった。
 今の本堂の工事は昭和26年に着工しているので、その頃の話である。私としては戦後の浅草での唯一怖かった話として頭に残っている。
 そういえば、浅草のお富士さんとして知られる浅間(せんげん)神社の祭礼が今年も5月26日と27日の両日と6月30日、7月1日の両日と2回開かれている。この祭では植木市が有名で、植木が大好きだった父と2人で戦後何回か出かけている。
 父との思い出に連なる、これも懐かしい「お富士さん」である。

仲見世から見た浅草寺仮本堂と後ろに建設中の本堂

 六区は相変わらず、テレビの効果もあって、お笑いの浅草演芸ホールの前だけ人が群がっていた。今は人気者となってしまい、なかなかお会いできないが、つい先日久々に親しい林家木久扇さんから自作の本が送られてきた。
 少し前、演芸ホールの昼の部のトリをつとめていたが、その時は私の方で時間がなくて、お会いすることができなかった。
 浅草をひとまわりして、約束してあったので、ガールフレンドと言っていいか、逗子のОさんと待ち合わせしていたので、明治座の「三山ひろし歌手生活10周年」というショーを観に出かけた。歌声に満足して帰宅した。Оさんは米寿を過ぎた元気印のお姉さんである。
 Оさんも私も三山ひろしさんの歌声に魅せられている同志だが、とにかく、旬の人に接するというのは実に楽しいことである。梅雨休みの一日、耳福に酔い、浅草の一人散歩といい、盛りだくさんの一日だった。
 ずっと前に描いた雨の中の下校時の子供の絵が出てきた。気がつくと、まず番傘は今はほぼ使われていない。学生帽もほとんど今の子は被(かぶ)っていない。
 第一絣(かすり)の着物なんて遠い昔の遺産だし、学生鞄(かばん)や下駄の存在も今はないし、立ちションなども見られない。
 ずいぶんと私たちの周囲も変わっていることに改めて驚かされる。私の経験でも、さすがに着物姿で通学した記憶なんてないが、戦時中、一人だけ着物姿のみで通学してきた生徒がいた。この生徒は後に小さな土木会社の社長になったとか。
この中で私が実体験として知っているのは、学生帽と番傘、そして下駄と学生鞄である。
学生鞄はベーゴマをする折、床(とこ)として大いに役立った。授業中、教室の後ろの方でベーゴマ遊びをし、先生から廊下に立たされたことがあった。
 5月は好きになれない|と書いたが、新緑の美しさは花より勝るものと私は実感している。様々な種類の緑の層の美しさに我を忘れた経験は二度や三度どころではない。
 京都の嵐山の新緑を眺めたときは本当に我を忘れた。
 今月は高橋治さんとの出会いにちょっぴり触れたが、その中から、ちょっと心に残る一文を拝借させていただいて稿を終えることにする。
 「人間が生きて行く以上、数々の出会いは必ず人間を待ち受けている。というよりも、待ち伏せしているといった方が良いくらい、生きることとは、出会いを待つことに等しいほどである。そして、出会いは否応(いやおう)なしに、待ち受けている誘(いざな)いにつながって行く。
 そして、誘いは人を思わぬ運命の中に連れ去って行く。今度はその誘いによってもたらされた運命が、人間を支配する形をとる。
 運命に支配される中で、新たな陶酔が生み出されて行く」
 高橋治『ひと恋ひ歳時記』より

あわせて読みたい