松戸周辺の城跡を訪ねて⑩

 前回(第819号、昨年11月26日発行)では、県道282号線(柏印西線)沿いの鹿島城、鷲野谷城、泉妙見山城、泉城、柳戸砦の跡を訪ねた。今回はさらに印西市寄りに道を進み、2城と3城館跡を紹介する。いずれも現在は柏市となっている旧沼南町にある城跡で、近くにバス停があるので、目印にしていただきたい。 【戸田 照朗】

 

 

柏市 手賀城

「手賀城址」の石柱。畑の奥は伏見稲荷の祠

 手賀沼から注いで利根川に至る手賀川沿いの低地帯を北側に望む台地上にある手賀集落のある台地全体が城跡だったと思われる。
 城跡の一角に興福院という真言宗のお寺があり、山門の脇に市が建てたと思われる手賀城跡の標柱がある。一帯にはまだ空堀や土塁の跡が残されているという。民家の境や道路脇に土塁らしき土盛を見かけたが、それが本当に土塁の跡なのかどうかは判然としなかった。同寺の周辺を歩いてみた。境内の北側に畑の入口があり、「手賀城址」と彫られた立派な石柱があった。石柱の下の方に「昭和三十七年十月十五日 手賀城址保存会」の銘が彫られている。畑の奥、台地の端に伏見稲荷大明神の祠がある。祠の後ろからは北西の方向に手賀沼の水面がキラキラと光っているのが見え、低地帯に田園が広がっていた。
 手賀城主は原氏だったと言われている。原氏は小弓城を拠点とした千葉氏の一族で、戦国時代が始まるまでの一時期は主家の千葉氏を凌ぐ勢力を誇り、松戸市内もその勢力下にあったと考えられている。当時は城跡台地の近くまで手賀沼の水が入り込んでいたと考えられ、手賀城主原氏は、水運も利用していたものと思われる。

興福院山門の左に手賀城跡の標柱がある

 県道282号線沿いの林の中に「原氏の墓所」がある。標柱の説明書きには「正面右側の五輪塔は戦国末期にこの地を領した手賀原氏の供養塔で、江戸初期に建てられました。右側には、免因保護に一生を捧げた原胤昭と刑余者たちの墓石が並んでいます」とある。
 原胤昭は、江戸町奉行所与力の家に生まれ、明治維新後は東京府職員となった。辞職後、洗礼を受けてキリスト教徒となり、日本初のキリスト教書出版社十字屋を開業。また日本初のキリスト教常勤教誨師となった。児童虐待防止活動や労働者層のための小住宅経営、さらに監獄改良・出獄人保護事業(現在の更生保護事業)の先駆者として、その生涯に1万人を超える刑余者の更生を支援したという(片岡優子「原胤昭の生涯とその事業」)。

伏見稲荷大明神から手賀沼を遠望する

 墓所には比較的新しい墓石もあり、十字とともに墓碑銘には千葉氏一族の原氏、高城氏などに共通する「胤」の文字が見られる。
 興福院の東側には台地下に降りる道路があり、台地の下には大きな共同墓地が広がっている。この道路の脇の台地上の端に、千葉県指定文化財の旧手賀教会堂がある。明治6年に信教の自由が保障され、キリスト教が解禁になると手賀周辺でも布教が始まり、明治12年3月に13人が洗礼を受けた。教会堂の設置は明治15年に信徒から献金を得て、翌年に使用していた民家に聖堂(礼拝堂)を増築したことに始まるという。教会堂は一見茅葺き屋根の民家のように見えるが、漆喰で塗られた壁の窓の形から教会であることがうかがえる。旧手賀教会堂は毎週土、日曜、祝日と5月2日の午前9時から午後3時まで公開されている。
 また、台地の南西の端には小さなお堂のある一角があり、ここに「手賀小学校開校跡」の碑がある。城跡台地は城がなくなった後も、文化を育んできたことが分かる。

旧手賀教会堂

原氏の墓所

 

 

 

 

 

 

 

柏市 高野館

高野館の郭跡の中の祠。祠の後方が土塁

 手賀川から約1キロ南の谷津奥の台地上にある。民家の裏の雑木林、竹林の中に土塁、空堀、そして方形の郭跡が残されている。地主の方のご厚意で見せていただいた。
 民家の裏に方形の郭があり、その一角に小さな祠があった。郭の外にもいく重もの土塁が見られた。館跡台地を南北に道路が走っているが、西側が館跡で、道沿いの土塁の向こうにも郭跡らしき遺構がある。
 伝承では、高野(こうや)館は平将門の別墅(べっしょ。別荘、下屋敷)として造営され、高野御殿と呼ばれていたという。平将門は我が国に武士の時代が来る

高野館跡台地の中の道。左側に土塁と郭

前、平安時代中期に平将門の乱を起こし、自らを「新皇」と称して東国に独立国を作ろうとしたと言われている。
 平氏は桓武天皇の子孫の家系。高望王は上総介として下向し、任期が終わっても帰京せず土着して、下総国、常陸国に勢力を拡大した。時代が下って戦国時代には、高野の地は千葉氏の重臣・円城寺氏の所領だったという。千葉氏も平氏の一族である。

 

 

柏市 布瀬城

布瀬城跡台地の端にある宝寿院

 手賀川を望む布瀬北部の台地上にある。城域の南に宝寿院という真言宗の寺があり、北西にある道路の分岐点には大木が立ち、その根本にはいくつかの石造物が並んでいる。この大木のある場所も城域の一部と考えられるが、城の遺構らしきものは残されていない。
 布瀬村は室町時代は原氏、あるいは岩松氏(足利氏の支流)の家臣・二階堂氏の領地だったようだが、戦国時代については不明。

 

道路の分岐点に立つ大木

 

 

 

 

 

 

 

柏市 布瀬館

地蔵堂(布瀬館跡)

 県道282号線沿い、布瀬城の南側の台地上にある。現在、城館跡は地蔵堂、墓地、宅地となっている。周辺には土塁らしき跡が微かに残る。

 

 

 

 

柏市 松前館

松前館があったと思われる台地の端

 下手賀沼、手賀川に向かう県道828号線の長い下り坂の途中にある。元はもっと高い台地だったのかも知れない。遺構らしきものは何も残されておらず、台地の端、畑の中に小さな祠が見える。規模や歴史などは不明。

 

 

 

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※参考文献=「東葛の中世城郭」(千野原靖方・崙書房出版)

 

 

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