本よみ松よみ堂
みかづき

「教育」を「塾」の側面から描いた家族のドラマ

みかづき

森 絵都 著

集英社 1850円(税別)

 昭和36年、習志野市立野瀬小学校に勤めて3年目になる用務員の大島吾郎は、知の萌芽を感じさせる冴えた目をした1年生の少女・赤坂蕗子(ふきこ)に出会った。吾郎は「勉強がわからない」という子どもたちのために、仕事場兼住居の用務員室で放課後、児童に勉強を教えていた。高校生の時に父親が働いていた問屋がつぶれてしまったために働くことになったが、吾郎には天性の教える才能があった。「大島教室」と呼ばれるようになった放課後の補習に通う児童の成績は上がり、「用務員室の守り神」と一部の母親からささやかれるようになる。
 そこに現れた蕗子の母・千明が一緒に塾をやらないかと誘った。千明は強引な女で、自分が正しいと思ったことに対しては周りが見えなくなるほど猛進する。千明は「国民学校」で理不尽な軍国教育を受け、戦後は手のひらを返したように「民主教育」を行うようになった文部省と公立学校に根深い不信感があった。
 千明は学校教育を太陽、塾を月に例える。「太陽の光を十分に吸収できない子どもたちを、暗がりの中で静かに照らす月」。塾がまだ少なく、怪しい商売のように思われて、子どもたちも胸を張って塾に通っているとは言えなかった当時、それはまだ三日月だった。しかし、いつか満ちて満月になると千明は信じていた。
 戦前にカフェーの女給をしていた千明の母・頼子は軍人に見初められて結婚したが、婚家で差別されて苦労をした。千明もシングルマザーで、蕗子との女三人暮らし。女三人に絡め取られた吾郎は夫として、父として、塾の教師として生きていくことになる。
 八千代台にある自宅の一軒家を教室にして開いた塾は、千明の思惑どおり時代の波に乗り、やがて津田沼駅前に自社ビルを持つまでに大きくなっていく。千葉県が舞台のため、物語中には松戸や柏の名前も登場する。
 「教育」という大きなテーマを、塾という月光から照らした家族のドラマ。親子三代にわたる物語は大河ドラマのようでもある。物語は塾という言葉がまだ浸透していなかった昭和30年代から、塾通いが当たり前になった昭和の終わり、そして塾に通える子と通えない子という家庭の貧富の差が表面化した最近の状況まで映し出す。
 この間、学校現場は「落ちこぼれ」「校内暴力」「不登校」と様々な問題をはらむ。戦後の経済復興とともに「受験戦争」が激しくなり、「詰め込み教育」の反省から導入された「ゆとり教育」も賛否が分かれた。
 私自身の経験からすれば、中学1年の時の英語教師が大嫌いで、いきなり英語がわからなくなった。そんな時、父が同僚から聞きつけてきた英語の私塾に入った。塾の先生は私が大嫌いな中学教師の高校時代の恩師で、授業中に「T(中学教師)は、こんなことも教えてないのか!」と一喝するのが痛快でたまらなかった。予習復習も積極的にやるようになり、2年生になる頃、英語は得意科目の一つに変わっていた。
 大学受験の予備校時代。授業が終わると、講師の前に質問の長い列ができた。高校では見ることのできなかった光景。次の授業が始まりそうになって、自分の順番まで来ないと、職員室まで講師を追いかけていって質問した。講師も時間の許す限り答えてくれた。1分1秒が本当に大切だった。あんな充実した時間は二度と来ないと思う。
 分からないことが、分かるようになった時の歓び。吾郎と千明は塾の方向性について対立する場面もあるが、二人とも教えることにとりつかれている点は同じだ。それは、「分かった」ときの子どもの瞳の輝きに魅せられたのではないだろうか。
 物語の中では、夫婦、親子の確執と和解が描かれる。「教育」と並んで物語の大きな柱だ。
【奥森 広治】

 

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