昭和から平成へ【65】
戦後の荒れた学校と恩師〝辺さん〟

昭和から平成へ 第Ⅲ部 夢見るころを過ぎても(65)

昭和の森博物館 理事

根本圭助

当時あこがれた歌手の岡晴夫(左)と阪神タイガースの名捕手・土井垣武(青空うれしさん提供)

 (前号より)
 昭和23年9月、新制中学2年生になっていた私達は、夏休みが終わって2学期を迎え、落成したばかりの柏中学校へ移った。どこかの兵舎の古材で作られたという校舎は、たった一棟だけだったが、その土地は、戦時中甘藷作りをやらされた広大な芋畑の跡だった。
 塀も境目もなかったので、どこからが学校の敷地なのか判らず、とに角凄く広かった。
 整地しようにも工具や機械は何もない。
 数本の万能鍬があるだけで、私達は全校の生徒で横に一列に並んで、バケツの水を撒きながら、ぼこぼこ足首までもぐる畑の土を踏み固めた。
 生徒の数は多かったが、校庭の広さには追いつけなかった。
 風が吹くと、もうもうとした大砂塵となった。因みにこの柏中の砂塵公害問題は、人家も増えて、住宅地となった昭和40年以降まで続き、近所に長く住んでいた私は、対策委員に選ばれたこともあった。
 話を昭和23年に戻すことにする。この校庭の整地中、思いがけぬ事故が起った。
 T君が振り下ろした万能鍬がK君の左手に命中して、K君の左手の小指が根元からすっぱり切り落とされてしまった。大騒ぎとなり、私達は走ってO外科へ駆けこんだが、生憎先生は不在。当時は病院、医院も少なく、やっと応急処置をしてくれたM医師はなんと耳鼻科の先生だった。K君の小指は遂にもとへは戻らなかった。後年K君は経営コンサルタントのような仕事をしていたが、「知らない土地のバーなどで、ちらりと左手を覗かせると、地元のチンピラ連が、指をつめたことのあるその筋の人間と勘違いして、さっと静かになる」と苦笑いしていたが、そのK君も数年前に他界している。

上は国鉄総裁下山定則と轢死体が発見された常磐線の現場、下左は三鷹事件、下右は松川事件現場。中村信生画

 あの頃の少年達は、殆ど全員といっていい程「野球少年」だった。
 広い校庭に、クラス毎にいくつもの専用球場が作られた。野球のグランドは出来たが、バットやグローブはほとんど無かった。
 肝心のボールもなく、大きなビー玉やまれにゴルフボール等を芯にして、工夫をこらし手製のボールを作った。Y君のお母さんは洋裁で生活をしていて、このお母さんが作ってくれたボールは大きさといい、手ざわりといい抜群のものだった。私達は、クラス専用のグランドで三角ベース野球やら、独自のルールを作って野球に夢中だった。
 2年生になった頃、(前にも書いたが)生徒は進学組(2クラス)と実業組(4クラス)に分けられた。その時の担任が渡辺正雄先生だった。小柄な先生だったが、ある種カリスマ性のある先生で私達はこの先生の虜(とりこ)になった。いや虜になったのは先生の方かもしれない。この渡辺先生、通称「辺さん」の影響を強く受けた仲間は多く、私もその一人で、その後の人生に強い影響を受けることになった。担任になった初めての父兄会で(この頃からPTAという言葉が使われるようになった)辺さんは父兄に向かって、「私が担任になったからには、責任もって全員志望校に入れてみせるから、任せてください」と大見得をきった。学校全体では相変わらず暴力の風が吹きまくっていたが、辺さんを中心にした私達のクラスは皆結束して、勉学に勤しんだ。
 中学2年生で、島崎藤村の「破戒」をクラス総動員で演じたのがこの頃で、上演日は手許に残るメモでは昭和24年3月7日となっている。前にこのシリーズで詳述しているので詳しいことは割愛させていただくが、みんなみんな辺さんの力によるものだった。ところが3年生になり、進学組とか実業組(高校進学をしないですぐ社会人となって働く人達)とかに分けるのは義務教育の中では許されないことという学校の方針で又ばらばらに解体され、新しい編成で6クラスにまとめられた。辺さんは学校を辞め、私塾のような形で、スパルタ教育を続けてくれるようになった。
 父兄からの申し出でも金銭は一切受けとらず、私達は、町から借り受けた小さな小屋を先生が一人で寝られるように手を加え、狭いので2組に分けられて、その小屋へ通い、受験勉強を続けるようになった。
 新しく始まった6クラスのクラス委員は、すべて前年辺さんの薫陶を受けた私達で占められたが、教室内の荒れた空気は一層ひどくなった。私自身も保身上、この風潮は無視出来なかった。学校では悪さをくり返し、放課後は辺さんの所で真面目な生徒になり勉学に励むという二重人格的生活を自己嫌悪を伴いながら続けていた。
 大雪の日のことだった。生徒は校庭で雪合戦などをしていたが、誰からともなく先生達を呼び出して、雪の中へ埋めてしまおうということになった。
 先生達は気配を察して職員室から出て来ない。職員室へ向かって、ありとあらゆる暴言を叫んだが、先生達はガラス戸越しに愛想笑いを浮かべて閉じこもっていた。と一人若いRという先生が飛び出して来て、「貴様ら!」と何か叫んだが、たちまち生徒に袋叩きにされ、血だるまになって雪の中で大の字になり、「さあ殺せ! 殺しやがれ!」と叫びつづけた。
 級友の一人にEという女生徒が居た。
 大柄でおませな生徒だった。作業を終えて、井戸端でブルーマー姿で足を洗っていた。
 ふと気付くと物陰からそのEさんの太ももを熱心に覗いているDという教師の姿が目に入った。男生徒の何人かがこれに気付いたが、そのうちの3人ぐらいが各々バケツに並々と水をくんで階段を駆けあがって行った。見ると、2階の窓から3人が手を振っている。ちょうどD先生の真上だった。
 3人が一斉にバケツ3杯の水をD先生の真上から下へ向かって放水した。D先生は悲鳴をあげて職員室へ転がりこんでいった。

中学2年当時演じた「破戒」の台本

 こうした事柄は鮮烈に覚えているのだが、その後どうなったかは不思議と覚えていない。
 私自身もかなり悪さをした。校舎は一棟だけだったので、集会室という教室2部屋分の多目的教室があった。オルガンがひとつあって、音楽は2階のこの部屋で授業が行われた。
 クラスの窓硝子を3枚割ってしまい、寒くてたまらなかった。私を中心に音楽の時間、皆窓側に陣どって、大声で歌を歌った。
 ヤスリを持って来た仲間が居て、歌に合わせてそのヤスリで集会室の窓の桟を切り始めた。
 「線路は続くうよどおこまでも~」。キーコンキーコン。無事に3枚のガラスを手にした。
 授業が終わるやいなや、私は上着を脱いでガラスを包み、級友に囲まれて1階のホームルームに駆け降りて、クラスの窓硝子に3枚をはめこんだ。
 この時もお咎めなし! 先生達は卒業式の仕返しを恐れて何も文句は言わなかった。
 こうしてひとつひとつ書き出したらキリがない。毎日がそんなことの連続だった。
 そして放課後から夜は辺さんの許で、「良い子」になった。
 昭和24年、この年は今でも戦後史の中で謎の事件と言われる「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」と7月から8月にかけて鉄道にかかわる事件が続発した。世間も荒れていた。
 私の家でも、親類に頼られ、八王子へ移って2度目の空襲に遭った祖父母のうち、祖母が7月9日壕舎を改造したままの住居でこの世を去った。私のことを幼い時から溺愛してくれた私にとっては大事な大事な祖母だった。中学生になってから、夏休みとか冬休みとかを私は八王子で過ごしていた。
 ラジオもない生活に、私は講談本等を探して持参し、夜は祖父母に読み聞かせた。
 日中戦争で中断したままだった松戸・取手間の電化が開通したのが祖母の亡くなる1月前6月1日のことだった。それまでは松戸以遠東京方面への切符は電車区間と呼ばれ、極度な制限のため入手出来ず、柏から松戸まで木炭バスならぬ薪を燃料にしたバスが1日何本か出ていて、早朝から並んでやっと乗りこんだ。いつも祖父が送り迎えをしてくれた。
 祖母の葬儀の後始末で八王子へ出向いた際7月15日に発生した三鷹事件の生々しい現場を私は見ている。この日より前のことだったと思うが私は夜真面目な生徒になって辺さんの所へ通っているのが面白くないと言ってリンチに遭った。下校時5、6人に待ち伏せられて山の中で押さえこまれた。中の一人がぶらぶら大きな青大将をぶらさげて、私の口をこじあけて口の中へその鎌首を押し込もうとした。

(つづく)

あわせて読みたい