昭和から平成へ【62】
早世した本当の兄弟のような仲間、小林弘隆さん 

昭和から平成へ 第Ⅲ部 夢見るころを過ぎても(62)

昭和の森博物館 理事

根本圭助

 今年も近くの家の庭から、金木犀のあまい香りが流れてくる季節を迎えた。10月8日は「寒露」。23日が「霜降」というように、暦の10月の項には、早くも冬に向う言葉が、ずらりと並び始めている。

 日も短くなり、このところ、冬のような寒い日が続いている。10月4日は十五夜。11月1日が十三夜である。秋の夜長、一人暮らしの身にとっては、様々な思いに耽(ふけ)る季(とき)である。もっとも今年の夏は、台風、集中豪雨、竜巻、突風、土砂災害と大きな災害が続き、不幸にして、被害に遭遇した方達にとってはそんな感傷にひたる余裕など持ち合わせる筈も無いだろうと心を痛めている。

 静かな季節を迎えたというのに、北朝鮮のミサイル問題で不安な毎日が続き、そこへ急に衆議院の総選挙。誰を、何を信じて良いのか訳の判らない混沌とした選挙で、何とも騒がしい日々である。そういえば、本紙の発行日が、まさにその選挙の投票日で、果たして日本丸の前途はどこへ向うことやら、暗然とした思いに沈んでしまう。

 10月といえば、昭和20年10月―戦争が終って、私達一家は、柏町の中心部に近いT荘という木造2階建ての六畳一間のアパートを見つけて移り住んだ。 炊事場もトイレも共同のたった六畳一間きりのせまい部屋に、父母と私と弟妹、親子5人の生活が始まった。空襲で離れて暮らしていた父も戻って来て、母と私達は空襲からも疎開生活の重圧からも解放され、天国に居るような楽しい気分だった。極度な食糧難で、飢えに苦しむ毎日だったが、六畳一杯に敷きつめた布団に、親子そろって枕を並べて寝られるだけで幸せだった。今でも私は安ベニヤ風のやけに派手な木目の天井をなつかしく思い出す。

 そのアパートで親しくなった3歳年上のFさんが、先日家を離れて老人ホームに移った。奥さんは8月に一足先に入居していた。 Fさんは胃を全摘して居り、一人では生活が成り立たず、奥さんの後を追うように、9月半ばに同じ老人ホームに入居した。

 空襲の焼け出され同士で、境遇が同じFさんとは、このアパートで一緒になり、兄弟のように親しくなった。私にとっては大事な友だった。何しろ72年来の友である。 何でも話し合えた友が、今までと違う垣根の家へ引っ越してしまった。秋の夜長、物思う季節である。様々な人の面影が浮かんでくる。

「歩き魔」「スケッチ魔」

若き小林弘隆さん(左)と筆者

 小林弘隆―友であり、小松崎一門の兄弟々子だった。実は弘隆(ひろたか)ちゃん(私達はそう呼んでいた)は師の小松崎茂先生が、若い頃師事した小林秀恒先生の二男だった。
小林秀恒先生のことは、何年か前に、本欄で取りあげたことがあったが、その瑞々しい画風で、戦前の大衆文学全盛の時代、花形挿絵画家として一世を風靡した。
 菊池寛をはじめ、多くの人気作家とコンビを組み、斯界の先輩、岩田専太郎、志村立美とともに挿絵画家三羽鴉とうたわれた。
 岩田先生は、妖艶な美女を得意としたが、清純な若い乙女を描くのを苦手とした。
 秀恒先生描く少女は、少女雑誌でも評判を呼んだ。少年雑

誌でも、江戸川乱歩の「怪人二十面相」の挿絵など、今もっ

軽井沢の教会で左から小林弘隆さん、筆者、節子さん

て語り草になっている。岩田、志村、小林の三羽鴉はライバルであって仲も良く、時としては3人そろって競い合って共に仕事をしたこともあったという。
 秀恒先生は、戦時中の昭和17年9月10日、入院先の順天堂病院で、肺結核のため34歳という若さであの世へ旅立った。
 27歳で未亡人となった文枝夫人は、恒彦、弘隆の愛息2人を抱え、苦しい戦後を送った。
長男の恒彦は電気関係に進み、二男の弘隆は、秀恒先生のたった一人の弟子だった小松崎茂先生に

小林弘隆さんの没後にファンが作った画集。「イラコバ」とは「イラストの小林さん」という意味の愛称

弟子入りし、絵の道へ進んだ。

 小松崎家で同じ釜の飯を食い、この兄弟は私にとっても特に親しい大事な友だった。
 弘隆ちゃんとの思い出は、書ききれぬ程沢山ある。初めて出逢った時、私はまだ高校生だった。長身でハンサム。小松崎家を巣立った日も、曇天、小雨模様の日だったが、私は柏から浅草まで、(徒歩で)つき合った。
 彼は稀代の「歩き魔」であり、「スケッチ魔」だった。彼には随分歩かされた。
 一度高円寺の友人の下宿先を深夜二人で出て、あっちへ寄り、こっちへ寄り、白々明けに吉祥寺の井の頭公園に着いたが、私の足はぱんぱんに張ってしまい、電車で高円寺へ戻り、彼に延々とマッサージをしてもらったことがあった。以来歩くことだけは出来るだけ遠慮させてもらったが、文字通り、青春を共にした仲間だった。

 私の所へもよく出かけてくれて、泊まることも多く、仕事

弘隆さんの父・小林秀恒先生の講談社の絵本

も手伝ってもらうようになった。

 彼はモデルガンにも精通していて、モデルガンのメーカー「MGC」の外国部へ籍を置くようになっていた。
 事務所は上野御徒町、昭和通りに面したビルの一室にあった。出勤は昼の12時。6時の終業だった。信じられないことだが、6時に事務所を出て、スケッチをしながら、あっちこっち寄り道し、柏の私の家まで歩いてくることが良くあった。勿論夜半過ぎ。時としては明け方に到着することもあった。
 そのうち彼は節子さんというすばらしい女性と巡り合った。2人揃ってよく私の所へも来て、あの頃は本当に楽しい毎日だった。
 節ちゃん(そう呼んでいた)も私には何でも打ち明けてくれて、私はいつしか妹のような感情を持つようになった。
 節ちゃんの膝まくらで耳そうじをしてもらったり、それを面白がって彼がカメラに収めたりした。
 いたずら好きで、冗談ばっかり言っていた弘隆ちゃんだったが、とに角映画も洋画、邦画何でもござれの生き字引きで、モデルガンのこと、Gパンのこと何事にも精通していて、彼の許にはいつか若い男性のファンが集りだした。
 MGCの支店が広島へ出店することになり、めずらしく弘隆ちゃんが出張することになった。その留守中、私と節ちゃんは浅草で食事をした。食事の後、節ちゃんから真剣に、「弘隆さんから、なかなか結婚について話してもらえない。圭助さんの口から弘隆さんに話してほしい…」。切実な訴えかけだった。
 私も折に触れては彼にその話をしていたが、いつもはぐらかされて来た。帰京した彼に、「今度こそ!」と思って節ちゃんの真意を伝えた。実は彼の気持はとうに決まっていたのでトントンと話が進み、軽井沢の教会で挙式することになった。私は立会人(媒酌人)という立場で出席した。式が終わって、仕事で徹夜明けだった私は、列席した節ちゃんの両親はじめ一同と別れ、一人星野温泉へ出向いて一泊した。
 翌朝軽井沢駅で待ち合わせ三人で帰京した。
 これが仲間の間で大袈裟に伝わり、「根本さんは面倒見が良いのは判っているが、新婚夫婦と第一夜を一緒に過ごしたなんて、一寸行きすぎだ」といって色々取り沙汰された。
勿論、ホテルは別々だったし、一緒に帰るというのは、もともと彼の提案だった。それ程私達は親しかったし、節ちゃんも幸せ一杯だった。
 しばらくして二人は茨城の牛久沼畔に建売住宅を買って幸せの中で一男、一女をもうけた。私にとっては特別といっていい仲間だったが、平成6年3月4日、弘隆ちゃんは肝臓癌で55歳の短い生涯を終えた。多くのファンに囲まれて、「これから」という時だった。
 その朝も彼を慕うファンが病院に押しかけていたが、仮眠で病室を留守にした僅かの間に、愛妻節ちゃんが右手、私が左手をにぎりしめている中で息を引きとった。
 「イヤー!」節ちゃんの絶叫が今も耳に焼きついている。あの日から、早いもので23年の歳月が流れた。本当に良い夫婦だった!
 建売りを買った際、私の家から持って行った小さな金木犀の木が、今は大きく育って、毎年秋には花を一杯つけるそうで、主(あるじ)を失った庭に咲くモクセイの花に思いを馳せると、胸のなかに酢がたまるような深い悲しみがわいて、切なく苦しくなる。様々な思いのなかで、今年の秋も一日、そしてまた一日と…。

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